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横井清さんの『中世民衆の生活文化』を読んで、衝撃を受けたことがあった。京・相国寺鹿苑院の院主・周麟が残した日記(15世紀)に、次のようなことが記されてあったという。
当時、たいへん高価であったはずの蚊帳を落としながら気づかず、荷車で去っていった人物を追いかけ蚊帳を戻してやったということなのだが、ここではそれよりも「やつがれ、屠家に生まれしを一心に悲しみとす」という部分に的を絞ってみたいと思う。 又四郎とは、善阿弥(室町時代の庭作り名人)の嫡孫その人のこと。「屠家」というのは、「生きものを屠り販(ヒサ)ぐことで生活する家」をさしてそう呼び、別途「屠者」とあるのもその家筋に生まれた者のことをいっている。 又四郎は、「屠家」に生まれたことを「一心の悲しみ」とし、だからこそ「物の命は誓うてこれを断たず」と自らを律していたのだが、では彼はなぜこんな台詞(セリフ)を周麟に吐くこととなったのか。不殺生戒(フセッショウカイ)の存在を考えてみるべきだ。僧が守るべき十戒の一といえばそれまでのことだが、この不殺生戒ほど日本人の心を捕らえて離さなかったものはなかった。「そんな殺生な!」という訳だ。 そうした戒律を民衆の規範意識にまで高め、かつ深めさせていった僧侶たち。又四郎の述懐もその眼前に禅の僧がいたからこそのことだった。 |
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屠家=穢多の仕事の中心は、死牛馬の解体・処理ということだった。そのようにして皮を取得し、それを鞣(ナメ)すことを通じてあの美麗で強靭な革を作る仕事に携わっていたのだ。いったいその作業のどこに、「屠(=殺)」などといった工程が含まれていたというのか。にもかかわらず、彼ら河原者が貴族たちから、「屠者」と呼ばれ穢多と呼ばれなければならなかったのは何故なのだろうか。
そしてもう一つが、善阿弥や又四郎がまさに生きたその頃、京に住んだ三条西実隆という貴族が「長年同家に仕えてきた『下女』と『官女』とを絶命以前に(鴨河原に−筆者挿入)急遽捨てて」いたということなのだ。 このことを考えれば、牛や馬も人と同じようにもう死ぬと分かればまだ息があるうちに、河原やそれに代わる場所に捨てられていた可能性が高い。だとすればそこに住む河原者が、捨て牛馬を屠り、皮を剥いで肉をとっていなかったと誰がいえようか。遺棄された病牛馬を拾い、屠ること、すなはち祝い上げ、葬るということだ。 河原者が「屠児(=屠者)」と呼ばれ、穢多とも呼ばれるようになった原因も、どうやらこの辺りのこと、つまりは「皮と肉のケガレ」にあったようだ。 |
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