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| 雪駄(はきもの生活史:大阪人権博物館発行) |
太鼓が部落の人々の専業であったのは、皮革製品の原材料となる革が、これも部落の独占事業だったからである。「規制緩和」などない時代だから、動物の生皮をお百姓から集めて細工の原材料の革へと加工し、職人に売り渡す卸までを部落の人びとがすべて
担った。江戸の町に年間約一万枚以上、大坂ではその約十倍もの皮が全国から集まり、部落の人々の手を経由してすべての人々の生活を豊かにした。太鼓だけでない、羽織・足袋(たび)・馬具・武具などのほか、鉄砲の火薬入れなどにも使われた。戦国時代から武将たちには必需品だった。
江戸時代にもっとも多く革が使われたのが「せった」である。ご存じ「フーテンの寅さん」が履いていたぞうりのことである。「雪駄」とも「雪踏」とも書く。江戸時代にフォーマル・ウエアーの一部となり、今も相撲取りや噺家の盛装はこれである。売り出した頃は高価であったため、貧しい町人たちは盆や正月にやっと買い求め、藁(わら)
ぞうりから履き替えた。 |
茶の湯の千利休が発明したといわれ、竹の子の皮を細く切って編んだぞうり表を硫黄(いおう)で白く晒(さら)し、裏には革を張った。藁ぞうりと違って冷たい水や雪を通さず、高級感あふれ、江戸時代のヒット商品の一となった。
この製造もすべて部落の人々が行ない、販売のみ町人が店頭で行なった。買った人々は大切に扱い、修理業者は江戸や大坂の町を直して歩いた。つまりアフター・ケアも部落の人びとの仕事なのだった。 |
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| 雪路直し(はきもの生活史:大阪人権博物館発行) |
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「せった」が広く行きわたるようになると、国内の革は品不足となった。そのため消費量の約三割程度を中国と朝鮮から輸入した。「鎖国のときに?」という疑問もあろうが、中国とは長崎を通して、朝鮮とは対馬藩が窓口となって江戸時代を通じて貿易を行ない続けていた。当時皮革は、生糸・綿織物などと並び重要輸入品目の一つであった。江戸の町人たちは、舶来品からなるぞうりを履いて歩いていたことになる。
皮革を扱う部落の商人は、人もうらやむ財をなした。なにしろ、牛馬の皮の値段は、一頭分が約二両だったというから、莫大な利益となった。
大坂渡辺の穢多に、太鼓屋又兵衛といえるは、およそ七十万両ほどの分限(ぶげん)(富豪)にて、和漢の珍器倉庫に充満し、奢侈(しゃし)大方ならず。美妾女も七、八人ありという。これに継ぎたるもの段々ありて、豪福数十人あり |
| (『世事見聞録』) |
と噂された。
やがて金融業者が生まれ、大名さえ財政難のときはこっそり世話になったという。しかし部落から金を借りるということは、江戸時代にあっては外聞が悪かった。井原西鶴は『日本永代蔵』で、「人しらねばとて、えたむらへ腰をかがめ」る者がいると非難した。江戸の弾左衛門も金融業者だったが、武士や町人の入り口は別にあって、お忍びでやって来る人々を迎えた。差別があってはまっとうな経済活動もままならない。
そのおかしさに気づくのは『日本永代蔵』から一八〇年あまり後、一八七一(明4年)の賤民制度の廃止まで待たねばならない。それから一三〇年を越えた今も差別はつづいている。今年は一連の特別措置法が期限切れになる年であり、全国水平社創立八〇周年の年にもあたる。部落問題の解決に向けて、いっそうの思いを新たにする年にしたいものだ。 |
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