『男女共同参画社会への道』(その1)
評論家・東京家政大学教授 樋口恵子

         

 1999年6月、国会で男女共同参画社会基本法(以下「基本法」)が衆参両院とも一人の反対もなく、満場一致で成立した。そして8月、東京都女性問題協議会は、石原慎太郎知事に、「男女平等参画の推進に関する条例」に盛り込むべき内容を記した報告書を提出した。自治体ではすでに一昨年から埼玉県が条例づくりの研究会を発足させているし、NGOと自治体行政が共同で「基本法」の学習会を開いたり、ブロックごとに条例づくりのネットワークづくりをすすめる動きが目立っている。日本の女性運動と女性行政の動きは、今、国際的な追い風を受けて新しい波を起こしている。今回の動きのキーワードは、あらゆる場における政策(方針)決定への「参画」である。これまでに男女の平等を保障するために、国内的には憲法があり、国際的には国際婦人年(1975年)以来の女子差別撤廃条約を日本は1985年(昭和60年)に批准している。この批准に向けて、日本の国内法、制度の中で、三つの改革が行なわれた。

 一つは、父系優先血統主義だった日本の国籍法を父母両系主義に改めたこと、婚姻による国籍の取得などの条件が男女平等になったことなど、国籍をめぐる男女格差が解消された。

 もう一つは、学校教育における中学・高校の家庭科男女共修の実現である。国際婦人年に先立つ1974年、女性を中心とする市民団体「家庭科の男女共修をすすめる会」が発足した。男女平等の基盤は教育にあり、が持論の一つでもあった市川房枝が代表世話人となり、私自身も世話人の一人に名を連ねている。当時の中学においては、「技術・家庭科」と一つの教科名とはいえ、男子は電気・機械などの産業技術につながる課目を学び、女子は被服・食物などの家庭科を学ぶという、事実上男女別に異なった教科であった。高校においては女子のみが家庭科四単位必修であり、男子はその時間、体育系の授業が追加された。戦後、小学校においては家庭科は男女共修となったが、義務教育を含む中等教育では、男女の性別役割分担意識による性別の教育体系が長期間存続した。とくに中学という義務教育において、親許を離れての就労機会が多い男子が衣食住の基本的な生活自立の知恵と技術の習得から疎外されたこと、そしてこの高度技術社会において女子が機械・技術の習得を妨げられたことは、後世に禍根を残す大失策だった、と指摘しておきたい。個人の自立を不完全にさせたことのみならず、日本の産業技術と、その基盤としての生活技術が性別によって分断されてしまったのだから。1993年に中学、1994年から高校において家庭科の男女共修が実現したのは、長期的には「家庭科の男女共修をすすめる会」など世論の動き、短期的直接的にはこの女子差別撤廃条約における教育に関して規定された内容であった。最後まで抵抗したのは文部省当局と高校PTAの全国集会であったことを申し添えておきたい。

 もう一つの改革が、男女雇用機会均等法(以下「均等法」)の成立である。既存の勤労婦人福祉法の抜本的改正という手法を取っているものの、多くの人々には全く新しい法律として受け取られる内容であった。「均等法」の内容は「募集・採用」「昇進・昇格」が努力義務で明確な禁止規定ですらないことを思うと、はなはだ不徹底なものであった。経営者側は「結果の平等」はめざさない、あくまでも「機会の均等」ということでようやく論議のテーブルについたといわれる。労働組合の女性側は、これまで営々として築き上げた、残業制限、深夜業制限など、女子保護規定が外されることに抵抗した。当時の力関係の妥協の産物として成立したのが、「均等法」であり労働基準法の改正である。労使のみならず、一般の女性、男性もそれぞれの労働観、家庭観にかかわるものであるため多くの人々の関心を集め、新聞で言えば、女性の生き方働き方が、生活・婦人面の枠を越えて、一面トップから経済欄のトップ記事を占める最初のテーマだった、といえるだろう。

 戦後日本における男女平等への歩みは、この世紀末に到って第三幕を迎えている。第一幕は、もちろん、終戦による占領政策の中で、日本の民主化の一つの柱として、男女同権が憲法にうたわれたことである。その憲法に従って、はじめて女性に参政権が認められ、戦後初の衆院選で女性が投票し、女性代議士が誕生したのは、1946年4月のことである。学校制度の男女平等も、民法の改正による家族における夫婦・男女間の平等も、すべて敗戦によって実現したものである。もちろん男女平等をめざす動きは、参政権に関しては自由民権運動時代から存在し、とくに大正デモクラシーの時期、男子の普通選挙運動と並んで、婦選運動は市川房枝をはじめとして多くの女性の参加を得て、全国的なひろがりを見せた。また国会内の男性の理解を得て、政治的集会に女子の参加を禁じた治安警察法(第5条)を改正することに成功している。国内に男女平等を求めるエネルギーと認識がある程度存在したからこそ、戦後の憲法の定める男女同権が女性に歓迎され、社会一般に定着したと言えるだろう。戦後間もない「朝日新聞」の連載マンガに、長谷川町子の「サザエさん」が登場し、今もテレビのアニメーションで人気番組となっている。「朝日」のような全国紙において、若い女性マンガ家の登用も、主人公がサザエさんという年若い女性であることも、初めてのことであった。そして「男女同権」は長谷川町子によって、サザエさん一家につねに肯定的にとらえられ、特に昭和20〜30年代前半には登場する頻度が高い。主婦であるサザエさんが、選挙が近づくと縁側で応援演説の練習をする場面も登場する。

 しかし、この第一幕の「男女平等」は結果として選挙権(被選挙権でない)の男女平等と女性への大学の門戸開放が具体的な変革であり、家族関係、地域、職域に関しては、伝統的な男女格差を解消するまでの力となり得なかった。総論として「男女同権」の概念には反対しないが、具体的な場面での男女平等となると従来の常識を超え、抵抗が大きかった。

 日本国憲法制定時の占領軍側スタッフとして、当時20代だった軍属・ベアテ・シロタ・ゴードンさんが女性の人権について草案をつくり、日本側スタッフと交渉の場では通訳をつとめたことは、今では広く知られている。数年前、日本政府の招きでシンポジウムに参加したベアテさんの話を聞く機会があった。当時の日本政府が最も抵抗を示したのは、第1条の天皇の地位。それからあとは比較的順調にすすみ、また第1条と同じくらい日本側が頑強に抵抗したのは、なんと24条だったという。24条は婚姻の自由と夫婦の同権を示したものだが、夫婦が同権であることは、日本の伝統にふさわしくない、という抵抗だった。もちろんこの日本政府側に一人の女性も加わっていなかった。きのうまで敵国だったアメリカ女性が、日本女性の地位向上の草案をつくり、同じ日本人の男性が大反対したという構図に、私は複雑な思いを禁じえない。

 私は、戦後ちょうど10年経た1956年に大学を卒業し、あちこちのマスコミに振られながら、時事通信社に就職することができた。今思えば、初任給も定年も男女差がなく、制度的には珍しいほど平等な職場だったと思う。しかし、職場の雰囲気は女性無用であり、私はたちまち傷ついて早々と退職してしまった。戦後の憲法などの変化を早トチリして、職場もまた、タテマエだけでも男女平等が通用するはず、と私は錯覚したのだった。そこへ決定打は、それから5年を経た1961年、アルバイトで勤めた特殊法人と、再就職をした出版社の双方に、片や結婚退職、かたや出産退職の内規があることを知ったことだった。やっと、S社の女性社員の「結婚退職」訴訟が始まり、のちに勝訴したのは1966年のことだった。

 ようやく私は、すべての国民に、「勤労の権利と義務」を定めた憲法をもつわが国で、女性の働く「権利と義務」が国別法でどう扱われているのか、職場の現実はどうなっているのか、遅まきながら「婦人問題」の研究会に入って、女性の官僚や教員、新聞記者などと学びはじめることになる。「評論家」としての私の出発点であった。


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