ひろげよう人権|東京人権啓発企業連絡会

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人権に関するさまざまな知識のコーナーです

~人権に尽くした人たち~ 日本パラリンピックの父 中村 裕 博士

プロフィール

社会福祉法人太陽の家 理事長
山下 達夫(やました たつお)

1959年生まれ
1歳の時に高熱が続きポリオとなり車椅子生活となる。
1977年太陽の家重度授産施設入所、1984年IT関連企業である三菱商事太陽(株)に入社し、2014年代表取締役社長、2016年会長に就任。
2018年退任と同時に太陽の家理事長に就任し「太陽の家が共生社会の先進モデルとなり、取り残される障がい者がいない社会を実現する」ことを目標に掲げ、近年は、特に精神障がい者、発達障がい者の雇用に力を入れている。

1964年 東京パラリンピック選手宣誓
青野繁夫氏(箱根療養所)と中村博士

中村裕の生い立ちと東京パラリンピック

中村 裕 博士

中村裕(なかむらゆたか)は大分県別府市に生まれ、1951年九州大学医学専門部を卒業後、同大学の整形外科医局に入局しました。天児民和(あまこたみかず)名誉教授の指導の下、当時未開の分野であった医学的リハビリテーションの研究の道を歩み始め、1960年英国のストーク・マンデビル病院のルードヴィッヒ・グットマン博士の下へ留学しました。そこではリハビリテーションにスポーツを取り入れ、医師や看護師だけでなく、理学療法士、作業療法士、医療体操士、ソーシャルワーカーなどが科学的なチーム医療を実施し、実に脊髄損傷者の85%が平均6カ月で社会復帰していました。
ひるがえって当時の日本では脊髄損傷者は、再起不能者として憐れみの対象であり、生涯を施設や病院で過ごすしかありませんでした。英国留学でグットマン博士に出会ったことで中村裕は「医師とは患者の病気を治療するだけでなく、貴重な人的資源として人間的な教育をして社会に送り出す」までが責務であるとの想いを新たにしました。
帰国後、中村裕は障がい者スポーツの啓発と普及に乗り出し、全国に先駆けて「大分県身体障害者体育大会」を開催しました。しかし、「せっかく良くなった患者が悪化する」、「障がい者を見世物にするのか!」といった非難を受けるなどなかなか理解が進みませんでした。周囲の批判を浴びつつも、関係機関を説得して廻り、スポンサーを募り、愛車を売るなどして資金を集め、日本から初めて「国際ストーク・マンデビル競技会(後のパラリンピック)」へ自分の患者だった選手を派遣しました。
グットマン博士と親交を深めた中村裕は、1964年東京パラリンピックの開催に尽力し、日本選手団の団長を務めました。パラリンピックでの日本選手の結果は21カ国中13番目、金メダル1個という成績でしたが、結果以上に中村裕や日本選手たちは、欧米の選手たちとの歴然とした差に強い衝撃を受けました。日本選手は病院や施設からかき集められ、そのほとんどが患者でした。一方、欧米の選手は仕事を持ち、結婚している人もいるなど、社会人として自立していました。パラリンピック終了後に日本選手53名の大半がもといた病院や施設へ帰っていったことから、「障がい者は仕事を持ち自立することが最も必要である」と考え、障がい者の働く工場「太陽の家」の創設を構想しました。

太陽の家および共同出資会社の設立

1972年 オムロン太陽株式会社の創業

1965年、大分県別府市亀川に「No Charity, but a Chance!(保護より機会を)」という理念を掲げ太陽の家を設立しました。太陽の家という名前は、障がい児を持つ作家の水上勉氏が命名しました。
創設時の太陽の家がめざしたのは「じめじめした授産所」ではなく「モーターがぶんぶんうなる経済的に自立した工場」でしたが、自転車操業の苦しい時代を経なければなりませんでした。
1972年、立石電機株式会社(現オムロン)の創業者立石一真氏との出会いがきっかけとなり、障がい者の自立の場として日本初の「身体障害者福祉工場」と共同出資会社「オムロン太陽株式会社」を設立しました。中村裕が思い描いた「障がい者を税金の消費者から納税者へ」の第一歩が実現しました。
その後、ソニー、ホンダ、三菱商事、デンソー、富士通エフサスなどと提携して共同出資会社をつくり、多くの障がい者の雇用が進みました。障がい者の作業環境の改善や治工具・自助具の導入を進め、障がい者の職能を開発し、手作業からライン作業、単純作業から熟練作業や頭脳労働など多くの成果を上げています。製造業だけでなく、スーパーマーケットの開店や銀行の支店を誘致するなど障がい者の職域をサービス業にも拡大しました。

障がい者スポーツの国際的取り組み

1975年 第1回フェスピック開会式入場行進旗

欧米主導だった障がい者のスポーツ大会に対して、中村裕はアジア太平洋地域のための大会を構想し、1975年に第1回フェスピック大会(FESPIC:The Far East and South Pacific Games for the Disabled/極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会)を大分市と別府市で開催しました。その目的は、アジア太平洋諸国の経済的にも貧しい国々の障がい者がこの大会に参加することで、各国でのノーマライゼーションやリハビリテーション、福祉の向上を図ることでした。フェスピックはおおむね4年に1回、アジア各国で開催されてきましたが、2006年の第9回クアラルンプール大会を最後に幕を閉じ、その歴史はアジアパラ競技大会へと引き継がれました。

1981年 第1回大分国際車いすマラソン大会スタート

1981年、大分県が国際障害者年の記念行事を検討する中、中村裕は「世界初の車いす単独のマラソン大会」を大分県に提唱し、大分国際車いすマラソン大会がスタートしました。障がい者が車いすを使用して長時間の運動を続けることへの体力的な問題や二次障がいなどの発生の危惧から第1回と第2回大会はハーフマラソンのみでしたが、安全性が確認されたことで第3回大会からフルマラソンが実施されました。これまでに38回の歴史を刻んできました。

太陽の家の現状および2020年に向けて

太陽の家は、現在大分県別府市に本部があり、日出町、杵築市、愛知県蒲郡市、京都府京都市に事業所があります。共同出資会社と協力企業も含めると、約1,900人の障がい者と健常者が在籍しています。本部がある大分県別府市亀川は住宅街で、海と山が近く温泉がある町です。敷地内には、スーパーマーケット、銀行、スポーツセンター、温泉(公衆浴場)などがあります。周辺には駅や居酒屋があり、誕生から半世紀以上が経過し、太陽の家は障がい者が施設に閉じこもるのではなく、一市民として地域と積極的に関わって生きる共生社会を追及し実践しています。
2020年東京パラリンピックに向けて、障がいのある選手がさまざまな種目で大会出場をめざしてトレーニングに励んでいます。また、中村裕の功績を偲び、本部中庭に立つ中村裕像の前で大会の聖火の採火を計画しています。そして現在敷地内にある「太陽の家歴史資料館」をリニューアルし、太陽の家の歴史や中村裕の功績、障がい者の就労やスポーツなどをさらに多くの人々に紹介できるよう計画し準備を進めています。コンセプトは「学ぶ・体験する・感動する」で、2020年の春、東京オリンピックパラリンピック開催前に開館の予定です。新たな資料館の名称を「太陽ミュージアム~No Charity, but a Chance!~」とし、創業からの理念を名称に加えることで、障がい者の自立をめざす太陽の家が最も訴えたいことを発信していきたいと思います。

2019.9掲載

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