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見聞

「中世鎌倉の歴史を訪ねて」

鳥山 洋

東日本部落解放研究所
鳥山 洋
 2017年1月13日、広報委員会は、鳥山さんのご案内で、中世鎌倉の歴史を中心にフィールドワークを実施しました。
 当時の政治・宗教の中心的存在であった鶴岡八幡宮を囲む寺社や町屋、またこれらを形成する人びとについてお話をお伺いし、ご寄稿いただきました。

はじめに

 国内有数の観光地である鎌倉には、毎年約2千万人の観光客が訪れています。歴史上も古く縄文・弥生時代から存在を示し、また、日本初の武家政権「鎌倉幕府」誕生の地として独自の文化を生み出してきた地域であり、由緒ある寺社や史跡が今も数多く残されています。
 現鎌倉市の中心市街地は、南は由比ケ浜、北と東西の三方を標高100m程の丘陵に囲まれた袋型の平地です。市内をほぼ南北に「若宮大路」が貫き、その大路の突き当たりの階段を登ると、山を背に鶴岡八幡宮(鎌倉幕府の宗社)があります。
 古都鎌倉の政庁(幕府)や当時の武家屋敷、町屋は、近現代の都市風景にすっかりとって代わられましたが、大路小路の街路や、周縁との出入口である7つの切通しが残り、全体として中世都市鎌倉の雰囲気を感じることができます。

鶴岡八幡宮

 今日、鎌倉を訪れ、鶴岡八幡宮に詣でる方も多いと思います。鶴岡八幡宮は、元は源頼朝から五代をさかのぼる源頼義が私的に祀っていた八幡宮(現在は、鎌倉市材木座に位置する元八幡)で、頼朝は、父祖ゆかりの地である鎌倉に入ると、改めて京都の石清水八幡宮を正式に勧請し、自らの屋敷(大倉御所)の近くに祀りました。これが現在の鶴岡八幡宮です。また、八幡宮から真直ぐ海に向かって伸びる参道「若宮大路」は、中世都市鎌倉の町づくりが進められる中で、鎌倉の中心・基軸線と位置付けられました。
 鶴岡八幡宮のもっとも重要な行事は、旧暦8月15、16日に行われた例大祭で、特に15日の神輿渡御※1では、被差別身分の人びとが重要な役割を果たしていました。江戸時代末まで、この神輿渡御の行列の先頭を歩いたのは被差別身分の人びとでした。
 また、彼らは行列が歩く道の準備や片付けもしています。本殿から現在の三の鳥居まで荒薦が敷かれ、神輿を中心とした行列はこの荒薦の道の上を歩いたのです。
 こうした人びとの役割は、彼らが「キヨメ」の力を持っていると観念されたこととつながると考えられ、この神事に深くかかわっていたことが、史料の上から推定されています。

御霊神社 (通称「権五郎神社」)

 御霊神社も古い由緒を持つ神社で、近世には鶴岡八幡宮の神職が御霊神社の神主を兼帯し、祭礼も鶴岡八幡宮に真似た形で行われていました。
 毎年9月18日に御霊神社で行われる「面掛行列」は、江戸時代以前の鶴岡八幡宮の例大祭の姿をしのぶことができるもので、現在では神奈川県の無形民俗文化財に指定されています。
 この「面掛行列」は、もともと鶴岡八幡宮の神輿渡御の中で行われていたのですが、近代になって神仏分離政策の影響もあり、八幡宮の例大祭では行われなくなりました。爺、鬼、異形、鼻長、烏天狗、翁、火吹男(ひょっとこ)、福禄寿と呼ばれる面を付けた人びとに続いて、妊婦を演じる「阿亀」と「女(産婆)」が練り歩くことから「はらみっと行列」とも呼ばれています。



▲これらのお面は、通常は御霊神社境内の宝物庫
(拝観料大人@100円)にあり、見学することができます
▲御霊神社(社殿)

※1:神輿渡御:神社祭礼でご神霊が神輿・船などでお旅所等に巡幸すること

2017.9掲載

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