私たちは企業の立場から人権の輪をひろげるため、人権に関するさまざまな情報を発信しています。

見聞

石井十次 〜孤児の救済と教育に生涯を捧げる〜

 「石井十次」は、1865年宮崎県高鍋に生まれました。十次は、16歳で結婚し、小学校の教師や警察官をしていましたが、ある時病気にかかり入院しました。そして入院中、院長の影響により、熱心なキリスト教信者になっていったのでした。

 その後、院長の教えに従って生涯を医学とキリスト教の布教にかけようと誓った十次は、岡山県甲種医学校で医学の勉強に励むのでした。そして、ある時、英国人マイルズが書いた「西国立志編」を読み、孤児の救済と教育が自分の使命ではないかと考えるようになりました。そういう思いの中で十次の生き方を、決定づけた出来事がありました。それは、1887年医学部4年生の時、診療中に一人の流浪の巡礼から、子どもの養育を懇願され、その子どもを養育するようになったことでした。これを契機に、十次は孤児の救済と教育を目的とする岡山孤児院を作ることを決意したのです。しかし、日本で初めての孤児院に対する当時の世間の目は、孤児に対する偏見から、「浮浪者を集めて何かをたくらんでいるのではないか」といった程度に捉えられ、政府や県、そして市民もまったく無関心でありました。

 1889年岡山市内に「三友寺(さんゆうじ)」という寺の一部を借り日本最初の孤児院を作りました。やがて、孤児が増え続ける中で、十次は、「自分が医者になっても、ならなくても、日本全国から考えてもたいしたことではない。しかし、我が国に未だ子どもたちを救う施設のない今、自分がこの事業を始めなかったら一体誰がやるのだ」との強い信念で、家族の反対を押し切り、医者を断念し、孤児救済のために生涯をささげる決心をするのでした。

 この孤児院の財政は、すでに60名以上にふくれ経済的に窮地に陥り、十次の身辺のものがお金に代えられ、孤児たちの食物となる状況でした。そして、1897年になると、孤児院を社会や世間が評価するようになり、多くの支援を受けることができるようになりました。

 1906年には、東北地方が大凶作に襲われ多数の子どもが孤児になりましたが、周囲の反対を押しきって、一時に800余名を収容し、岡山孤児院の収容児の人数は一躍1.200人以上となったのです。

 その後、郷里の宮崎に「里親村(さとおやむら)」という孤児院も作ったのですが、経済的な負担をはじめ、たび重なる辛苦の連続の中で十次は健康を害し、ついに48歳の若さでこの世を去ったのです。生涯、十次が育てた孤児は何と、3.000人を越えていました。

 私たちは、ややもすれば「他人の不幸を見て見ぬふりをする」という自己中心的な思いが強い訳ですが、世の中から弾き出された孤児達を、一人ひとりの「人格」として認め教育し、世の中へ送り出す事に生涯を捧げた、石井十次の人間を愛する心と信念を通す行動力は、私たちの人権啓発への取り組みに通じる事ではないでしょうか。

戻るホームに戻る