ひろげよう人権|東京人権啓発企業連絡会

クローズアップ

有識者から当会広報誌「明日へ」に寄稿していただいた記事の転載です

宮崎 成悟:ヤングケアラー

プロフィール

般社団法人ヤングケアラー協会 代表理事
宮崎 成悟(みやざき せいご)

1989年生まれ。15歳の頃から難病で寝たきりの母のケアを担い、大学卒業後、国内大手企業に入社。3年で介護離職。
その後、2019年にYancle株式会社を設立し、自身の経験をもとにヤングケアラーのオンラインコミュニティ、就職・転職支援事業を行う。同事業の形態を変え、一般社団法人ヤングケアラー協会を設立。2021(令和3)年度に厚生労働省「ヤングケアラーの実態に関する調査研究」検討委員会委員、2022(令和4)年度に厚生労働省「子どもの虐待防止推進等普及啓発事業」ヤングケアラーに関する外部アドバイザー、2023(令和5)年度にこども家庭庁「ヤングケアラー支援の効果的取組に関する調査研究」検討委員会委員および品川区ヤングケアラーコーディネーター。
著書(共著)『ヤングケアラーわたしの語り』、『Nursing Today ヤングケアラーを支える』。

ヤングケアラー支援の過程

「ヤングケアラーという言葉をご存じでしょうか?」

2020年に中小企業の経営者が500名ほど集まる場で、講演をする機会があり、このように問い掛けました。手を挙げたのは2~3名程度でした。その場での認知率は1%未満。この頃はまだ、ヤングケアラーという言葉をほとんどの方が知りませんでした。あれから3年が経ち、今の社会ではどうでしょう。多くの方がヤングケアラーという言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。

3年の間に、テレビ局や新聞社がヤングケアラーに関する特集を組み、埼玉県がヤングケアラーの実態調査をはじめ、厚生労働省と文部科学省がプロジェクトチームを組み、全国的な調査が実施されました。それからというもの、各メディアが一斉に報道をはじめ、瞬く間に世間に言葉が浸透していきます。国にヤングケアラー支援の予算が付き、2022年から厚生労働省におけるヤングケアラー支援のモデル事業がはじまり、それをもとに各地方自治体でヤングケアラー支援が実施されていくことになります。

初年度、埼玉県や山梨県、神戸市などの先進的な地方自治体が相談窓口の設置など具体的な支援施策を打ち出し、その実例を追うように数多くの都道府県、市町村が支援をスタートしていきました。現在は全国の地方自治体で、啓発活動や実態調査、支援者の研修、ヤングケアラーコーディネーターと呼ばれる専門職の配置などが行われています。

ヤングケアラーとは

改めてヤングケアラーについて説明します。一般社団法人日本ケアラー連盟の定義によれば、ヤングケアラーとは、「家族にケアを要する人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを行っている18歳未満の子どものこと」を指します。そして、18歳以降から概ね30歳代のケアラーは若者ケアラーと呼ばれています。若者ケアラーは進学や就職、キャリア形成、人生設計など人生におけるさまざまな課題に直面しやすいほか、年齢が上がるにつれてケア責任が重くなることもあります。

「どこまでケアを担っていたらヤングケアラーなんですか?」という質問をよくいただきます。ポイントはその子がどこまでケア責任を負っているのか、というようにお答えしています。たとえば、中学生の子(Aさん)が、両親、そして、きょうだい2人と暮らしていると仮定します。両親ときょうだいはどちらも健康です。Aさんは、共働きの両親が忙しいときに、たまに留守番や見守りなどきょうだいの面倒を見ることがあります。この場合、Aさんは大人が担うようなケア責任を負っていることになるかというと、そこまでではなく、多くの家庭で見られるようなお手伝いの範囲であるように思います(Aさん自身が負担を感じていたら別ですが)。

一方、中学生の子(Bさん)は、ひとり親の母、そして、きょうだい3人と暮らしているとしましょう。母は仕事で忙しく持病もあり、無理ができない状況です。そのため、Bさんは母と3人のきょうだいを支えるために、毎日のようにきょうだいの身の回りのお世話や家事などを行っています。この場合、Bさんは明らかに子どもが担う範疇を超えた、大人が担うべきケア責任を負っているので、ヤングケアラーとして支援が必要な子になります。このように家族のお世話をしているすべての子どもがヤングケアラーとして支援が必要というわけではなく、抱える責任の程度によって変わってきます。
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ヤングケアラーのいる家庭には多様なケースがあります。ケアの対象者が親のこともあれば、きょうだいや祖父母のケースもあります。ケアがはじまる年齢も違えば、対象者の病気や障がいの種類もさまざまであり、それぞれの家庭が抱える課題も変わってきます。一般的に言われるヤングケアラーが行っているケアの内容は、次のようなものがあります。

・障がいや病気のある家族に代わり、買い物・料理・掃除・洗濯などの家事をしている。
・家族に代わり、幼いきょうだいの世話をしている。
・障がいや病気のあるきょうだいの世話や見守りをしている。
・目の離せない家族の見守りや声かけなどの気づかいをしている。
・日本語が第一言語ではない家族や障がいのある家族のために通訳をしている。
・家計を支えるために労働をして、障がいや病気のある家族を助けている。
・アルコール・薬物・ギャンブル問題を抱える家族に対応している。
・がん・難病・精神疾患など慢性的な病気の家族の看病をしている。
・障がいや病気のある家族の身の回りの世話をしている。
・障がいや病気のある家族の入浴やトイレの介助をしている。  

出典:こども家庭庁「ヤングケアラーについて」


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厚生労働省が小学生から大学生までを対象に行った実態調査の結果、ヤングケアラーと思われる子が、クラスにおおよそ1~2人いるということがわかりました。さらに地域ごとの実態を把握し、実際の支援に繋げていくために、各地方自治体が追加で調査を行っています。

「ヤングケアラーって昔からいたのに、なんで今さら?」という質問もよくいただきます。確かにヤングケアラーは昔からいました。ですが現代は、よりヤングケアラーが責任を負いやすい構造になっているのです。核家族化により一世帯あたりの人数が90年代半ばと比較すると、半数程度になっています。共働き世帯も90年代半ばと比較すると、倍近くに増えています。ひとり親家庭数も90年代と比べると大幅に増えており、これらの変化から家の中の大人の数が減っていることがわかります。

一方、高齢者の数は言うまでもなく増えており、精神疾患を持つ人の数も90年代後半から倍近く増えていると言われています。家の中の大人の数が減っている一方で、ケアを要する人の数は増えています。よって、子どもや若者がケアを担わざるを得ない状況になっているのです。

他方、日本はケアを必要とする人(要介護者)を中心にさまざまな制度が作られています。また、「家族のことは家族で」という風潮も根強く残っています。支援者からは、同居する子どもや若者は「介護力」と見なされてしまい、なかなか彼ら自身の生活にまで考えが及びません。学校の先生も、生徒一人ひとりの家庭状況まで細やかに把握することは困難です。支援の狭間に立たされたヤングケアラーに、誰がどのようにして、手を差し伸べるのか。今、ヤングケアラーを支えるための社会の仕組みが求められています。

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私の経験

かくいう私も元ヤングケアラーでした。恐縮ですが、少しお話しさせていただきます。私は1989年生まれの現在34歳で、父と母、姉と弟の5人家族のもと、15歳の頃から難病の母のケアをしながら暮らしてきました。ケアが始まったと記憶しているのは、中学校3年生の頃です。その頃、母には重い眩暈(めまい)の症状がありました。しかしながら、病気の診断がついておらず、幾つもの病院へ行かされていました。あるとき、母が私を乗せて車を運転していたところ、ひどい眩暈から、交通事故を起こしそうになりました。それをきっかけに母は車の運転をやめ、普段買い物をしていたスーパーマーケットや通院していた病院まで、一人で行くことが難しくなってしまいました。そのため、私やきょうだいが付き添ってサポートするようになります。ただ私は、それが辛いとかしんどいとか思ったことはなく、むしろ母に頼ってもらえて嬉しいというような感覚でした。

私が高校生になると、母は徐々に家事ができなくなります。そのため料理や洗濯など、家事のサポートが必要になりました。そんな中、母の病気にようやく診断がつき、多系統萎縮症という死に向かっていく不治の病だということが判明しました。それを知った母は当然ながら落ち込んでしまいました。私が高校から家に帰ると、母が家の中を真っ暗にして呆然としている日々が続きます。私は家でも学校でも母のことをずっと心配しており、辛いとまでは言えないものの、心に重さを感じはじめました。

私が高校3年生になると、母の症状は日に日に悪化していきます。母は一度布団に横になると、一人で起き上がれなくなってしまいました。私は元々自分の部屋で就寝していましたが、それからは母の横で寝るようにして、夜中や早朝もサポートするようになりました。そのため寝不足になったり、部活を休んだりするようになります。それでも私は、学校には通えており、大学進学を志していました。しかし、無事に大学に合格した矢先、母は意識不明になり、救急車で病院に運ばれました。退院してくると、母は自分では思うように体を動かせず、喋ることもままならないような寝たきりの状態になり、全面的な介護が必要になります。

私は大学に行くのをやめて、母のケアをする決断をしました。なぜなら、家族全体を見たときに私が一番融通のきく立場であり、「1年ぐらい介護しながら勉強すればいいや」という気楽な気持ちもあったから、そして何より、母のそばに居てあげたいと思ったからです。ところが、実際に母が退院してくると、想像以上に重いケア責任を負うことになります。食事、投薬、喀痰吸引、寝返りや体の向きを変えてあげること、メンタルケアなど、排泄以外のあらゆるケアを私が担うようになり、勉強どころではなくなってしまいます。友だちとの連絡も断ち、引きこもり状態になっていきました。

それでもなんとか勉強する時間を作り、大学に進学しました。しかし、進学したからといって、ケアが終わるわけではなく、なかなか通えない日々が続きました。大学3年生になって家庭の状況が少し変わり、姉や弟が家にいられる時間が増え、私の負担が減って、ようやく大学へまともに通うことができるようになりました。その頃はじまったのが就職活動です。ケアの負担により、アルバイトもほとんどできず、ゼミやボランティアにも参加していない。大学生らしい活動を行うことすら難しかった私が就職活動の中でPRできることは、介護を頑張ったことだけでした。しかし、それを面接で伝えたところで理解してもらえず、まったく就職が決まりません。それでも駆けずり回ってなんとか一社内定をもらい、そこに就職しましたが、3年経ったときに母の体調が悪化し、介護離職してしまいます。その後、ヤングケアラーという言葉と出会い、支援活動をはじめ、今に至ります。

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ヤングケアラーコーディネーターの配置

私は中学生の頃からヤングケアラー、そして若者ケアラーとして生きてきて、数多くの壁にぶつかりながらも、運良くそれを乗り越えてきました。タイミングが少しでも違ったら、出会うべき人に出会わなかったとしたら、ケア責任の重さにより、潰れていたかもしれません。紙幅の制約上、私以外の家族の話をしませんでしたが、父も姉も弟も必死でしたし、病気になった母も生きることに一生懸命でした。ヤングケアラーの問題は誰も悪くありませんし、ヤングケアラーのいる家庭はみんなそうやって毎日を必死に暮らしています。それにもかかわらず、生じてしまう子ども・若者の困難があります。子どもの権利や若者の自由が失われてしまう現実があります。その根源は、ケアが必要な家族にあるのではなく、家族を支えられる仕組みがないこの社会にあるのだと思います。その仕組みを作るべく、我々支援団体は奔走しています。今年度に入って、いくつかの地方自治体にヤングケアラーコーディネーターが配置されました。ヤングケアラーコーディネーターは、制度の狭間にいるヤングケアラーを制度に繋ぐためのコーディネートを行うという役割があります。これからは各地方自治体に続々とヤングケアラーコーディネーターが配置されていくと想定され、ヤングケアラー支援は徐々に充実していくでしょう。

最後に

ヤングケアラー支援に欠かせないポイントをお伝えします。それは、企業です。ヤングケアラーもいつしか若者ケアラーになり、自分の人生と家族の人生の両方を考えなければならないフェーズがやってきます。その際に最も課題になるのが就職です。我々は「ヤングケアラーズキャリア」というヤングケアラー・若者ケアラーのためのキャリア相談窓口を運営しています。そこには、就職や働き方の悩みを抱えた多くの方々からの相談が、毎日のように寄せられています。

家族のケアをしながら働ける職場は、現状、数が少ないように思います。介護休暇・休業制度があったとしても、それだけで解決できることは、ほとんどありません。上述の通り、多様なケースがあり、状況は複雑なことも多いので、明確なゴールを描きづらいのです。必要なのは経営者および社員の理解と、柔軟に働ける環境です。まだまだ新しい分野なので、モデルケースもあまり存在せず難しいのですが、もしそういう職場を作りたいという方がいれば、我々も一緒に考えたいと思いますので、ご連絡いただけると幸いです。

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2024.1 掲載

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