ひろげよう人権|東京人権啓発企業連絡会

クローズアップ

有識者から当会広報誌「明日へ」に寄稿していただいた記事の転載です

石井 正則:ハンセン病療養所
~強く生きる あたたかい人たちから 力をもらえる場所~

プロフィール

俳優、タレント ホリプロ所属
石井 正則(いしい まさのり)

1973年3月21日生まれ、神奈川県出身。O型。1994年お笑いコンビ・アリtoキリギリスを結成。俳優として、ドラマ『古畑任三郎』で高い評価を得て、NHK朝の連続小説『オードリー』(00年)、『八日目の蝉』(10年)、BS時代劇『大岡越前』(13年~)、NHK大河ドラマ『花燃ゆ』(15年)、ドラマ『ハンチョウ~警視庁安積班』、舞台『ピーター・パン』、映画『THE有頂天ホテル』などに出演。趣味は、自転車・フィルム写真・喫茶店めぐり(全国2,400件以上)。七代目自転車名人。初代ミニベロ親善大使。駄カメラ写真協会会長。著書に「13(サーティーン):ハンセン病療養所からの言葉」、「駄カメラ大百科」がある。

石井正則さんは、俳優、タレントとして活躍されるかたわら国内のハンセン病療養所13カ所を巡り、各々の療養所のベースを共有しつつも異なる空気感をフィルムカメラに撮影し続けた。(写真提供:株式会社トランスビュー、石井正則氏)

石井さんは、全国のハンセン病療養所を撮影され、写真展の開催・写真集の出版をされました。私たちも各地の療養所に行く機会がありますが、きっかけがないとなかなか訪問がむずかしいと思います。石井さんの場合、療養所との最初の出会いはどのような感じだったのでしょうか。

最初はNHKのドキュメンタリーがありまして、それを見て、これは写真を撮りに行こうと思いました。それは、香川県にある大島青松園のドキュメンタリーでした。住まいは東京なので、どうやったら行けるのだろうと思っていたところ、東京にも療養所があることを知り、東村山市にある多摩全生園に行ってみたのがスタートです。

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今回、大きなカメラで撮影されているのが特徴的だと思いましたが、このカメラで撮影したいと思ったのはどういう思いからだったのかお聞かせいただけますか。

どちらかと言うと、8×10(エイトバイテン)という大きなカメラを持っていたから撮りに行ったという感じでした。療養所を撮るから8×10で撮ろうというのではなくて、このカメラを持っていなかったら撮りに行っていないと思います。受け取る側のフォーマットが大きくなれば詳細にモノが写るというシンプルな論理で言うと、8×10は1枚のフィルムがA4よりちょっと小さいくらいの大きさがあるので、それを引き延ばすとなると解像度が違います。小さいカメラやスマホで撮っても、今のカメラはキレイに撮れますが、その奥にあるものを撮りたかった。お芝居の世界で、役者が存在感を出さないと、監督から「お前写ってないよ」と怒られるのと近い感じなんです。それで、ハンセン病療養所という歴史のある場所を撮るには、8×10でなければ映らないと思いました。そのことと、自分がたまたま大島青松園のドキュメンタリーを見たということが、全部ピースとしてはまっちゃったという感じなんです。これは撮りに行かなきゃいけないんだろうなという感覚で始まりました。本当に強く訴えたいのですが、僕が写している場所は全部、誰でも行けるところなんです。自由に動ける場所なんです。特別なことはしていない開かれた場所なのですが、やはり未だに社会の空気がそこを閉ざしているという感覚があって、そういった大変な場所を撮るのには大きなフォーマットが必要だったというような感じです。

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13施設行かれる方は、それほど多くはないと思いますが、全国の療養所に行かれてどのような感じだったのか、また、撮影のきっかけになった大島青松園には後半の方で行かれたそうですが、その辺のご事情や思いもお聞かせください。

やはり隔離政策が長く続いた場所なので、そこから皆さん一生出られない前提で、そこだけの社会ができあがっていたので、13カ所それぞれ違いがありました。それは回ってみてわかったことなんですが、通底して同じ空気感っていうのがあるにはあるんですが、本当にそれぞれの園で違いがありました。会社で各社の社風が違うというのと近いのかもしれないです。それだけ閉じた状態だとやっぱり変わるんだなと、外部からの情報が少ない中で、一生懸命生きてきた人たちが、自分たちで作り上げてきた世界があって、それが13カ所違うのはとても印象的でした。

大島に行ったのが後半になりましたが、実はかなり前半に行く予定だったんです。こういう大きなカメラをさげて撮るとなると、隔離されている場所とはいえ、療養所は敷地が広いので、1日1園回るのが精一杯なんです。岡山県にある療養所の長島愛生園と邑久光明園は敷地が繋がっていたので、1日で回りたかったのですが、広いので時間がかかってしまうため、最初に邑久に行って撮り終えて、岡山で1泊してから、翌日に長島に行こうと考えていました。そして、長島を撮り終えた帰りに香川県に入って大島に行くという計画をたてていたのですが、初日の邑久を全部撮って帰ってきた後に、フィルムを入れる専用の箱がトラブルを起こしていることが判明するんです。たまたま仕事が長く空いた時だったので、これは都合が良いと思って行ったにもかかわらず、予約していた宿もキャンセルして帰ってきてしまいました。それで、最初にドキュメンタリーで見た大島青松園に行くのは、まだ早いのかなと思いました。なぜだかわからないですが、もう少し他も回ってしっかり理解してからでないと大島に行けないような感覚になり、まず他の所に行こうと考えました。仕事や用事で行く場所に近いところに療養所があったので、そこへ行っているうちに大島が後半になってしまったんです。だから、大島に行ったのは13園あるうちの11園目でした。大島に行った時は、やっと「来てもいいよ」と言われたんだなという感覚がありました。

一番最初に撮影した多摩全生園でも機材のトラブルがあって、今までの自分の感覚だったら、これは撮っちゃいけないみたいな気持ちになっていたと思いますが、その時の撮影は、自分の撮る姿勢を試されているという感じがしました。頭で理解しようとすると見誤る。ちゃんと体で理解しないといけないなと思ったときに、13園全部を回ろうと思いました。そうしないと知識で判断してしまいそうで、園の本質は理解できないし、知ってから写真を撮りに行くと、偏った気持ちで写真を撮ってしまいそうだなと感じました。療養所であった出来事を、意識して重く捉えるのでもなく、前向きに捉えるのでもなく、事実をちゃんとそのまま写真に収めようと思いました。特に、大きなカメラで撮るということはとても身体的な行為なので、体で理解するようにしようとしたんです。その後は、13園を回り終わるまで、一切ハンセン病に関する資料や本を見ないと決めて、自分の肌で理解していくという感覚でスタートしました。大島を撮れずに帰って来た時には、撮れる体に僕はまだなっていないって感覚でした。まだこのバーベルを持ち上げる筋肉がついていないのにそのバーベルを持とうとしていたという感覚です。

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仕事の合間に13カ所巡るのは大変なことだと思います。邑久光明園に行かれた後は、どちらに行かれたのですか。

次に行ったのは沖縄県です。愛楽園と宮古島の南静園です。沖縄本島と宮古島は戦争の歴史もあるので、他の園とは全然違った空気感がありました。それと、やっぱり海がきれいなんです。沖縄の中でも相当行くのが大変な場所にあるので、自然がめちゃくちゃきれいに残っていて、その美しい手付かずの自然の中で隔離されて一生出られないんです。毎日この美しい景色を眺められますが、そのきれいな海の向こうに普通の人が生活してるエリアが見えるんです。自分は一生向こうに行けないって思いながら、海を通して眺めているんです。景色が美しいがゆえに切ないっていうことが沖縄と宮古にありました。

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色々な場所で違うと思いますが、東北の方の療養所の空気感はまた違ったイメージでしたか。

青森県の松丘保養園と宮城県の東北新生園ですね。それが東北の二つの療養所なんですが、印象が違いました。青森の方は、周りの地域の人と全く交流を持たないわけではなくて、わりと普通に行き来があったそうです。不思議なもので、話を聞く前に園を散策させていただくとなんとなくその空気がわかるんですね。青森の冬はもちろん厳しいですが、厳しい中に皆さんの優しさというかそういったものが感じられます。東北新生園は、自治会長がとてもエネルギッシュな方でした。敷地内に近代的なマンションがどんどん建設されていました。しかも完全バリアフリーで、すぐ隣の病院の棟と直結していて何かあったらすぐに行ける作りになっていました。建設にはかなり賛否両論があったそうです。他の園からも「どうなのそれ」っていうような空気もあって、健常者の参加される大会で日本一になっているんです。僕らが子どもの頃は、土曜の朝に「おはようゲートボール」というテレビ番組がありましたが、あれにもよく出てたそうです。

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コロナ禍の緊急事態宣言でもそうでしたが、自粛とか、2週間の隔離とか、ずーっと閉じられた状態というのは、心に負荷が掛かります。療養所にいる皆さんは、それが一生ですと言われていたわけで、心のケアとしての何かが絶対に必要になる。文化的なことが必要になるんだなって、どの園を見ても感じました。それが、スポーツにいったのが鹿児島の星塚敬愛園で、熊本に関しては絵画のサークルが盛んでした。ほかに多かったのが文芸、詩作、短歌や陶芸などでした。人間の心には、文化的なことがいかに必要かということを、たくさん学ばせていただきました。僕をきっかけに、その一部でもいいので知ってもらえればという思いで、写真集に皆さんの作った詩を載せさせていただきました。心に大きな負荷がかかっているのに、前向きな言葉もたくさんあって、やっぱり人間って強いんだなって思いました。

それから、花に関しては、本当に多いですね。花を育てる、愛でるという行為も、人の心に安らぎを与えるんだと、そう思って園の人が水をあげている姿を見ていました。どの園にも美しい花がありました。これらの花が、たぶん皆さんの心を癒しているんだろうなと肌で感じてくると、やはり花を撮らずにはいられなかったです。

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石井さんの写真集には、園の方たちの「ここから一生出られない」というしんどさや葛藤、さまざまな想いを伝えていこうという姿勢が感じられます。

僕個人としては、この問題に詳しい人になってはいけないのかなと思っています。ハンセン病問題そして人権の問題に詳しい人というよりは、どちらかというとホテルのドアマンみたいなイメージです。「ここが入り口です」と皆さんに案内する役です。『明日へ』という冊子がありますよと案内する、そういった存在であればいいなあと思っています。自分が詳しくなりたいというよりは、僕をきっかけにして誰かが僕よりもハンセン病の問題に詳しくなったりすることのほうが嬉しいのかな。深く突っ込んで取材して撮った写真ではなく「皆さんが行ける場所しか撮っていないけれど、これだけ皆さんが知らなかったことがあるんですよ」ということを伝えられればいいという感じでしょうか。詳しくなりすぎると「石井さんは詳しいですね。すごいですね」で終わってしまいそうですが、「いやいや、皆さんと一緒なんですよ。僕も全然わかってないんですよ。ただ写真を撮っただけなんです」となれば、その写真を通して、ハンセン病問題に興味を持ってくれる人がいて、もっと詳しくなってくれるかもしれないですよね。そういう人がたくさん増えるようにすることは、withコロナの時代において、決して意味のない行動ではないと思います。

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最後に、療養所の皆さんが文化・芸術や、花に関わることなどで希望を持って生きていらっしゃるということですが、皆さんの生きる希望についてはどうお考えですか。

そうですね、そこは本当に難しいのですが、「希望」というとちょっと違います。「前向きに生きている」とは言いましたが、「希望」とは言ってないです。基本的には「絶望」ではないでしょうか。「絶望」を書いている方もいるんですが、「それでも前向きに生きていく」という力強さみたいなものをいろいろなシーンで感じました。美しい花を育てようとする気持ち、文芸活動に向かう気持ち、スポーツに向かう気持ちなど、前向きな力みたいなものを感じるんですが、「希望」があるというよりは、どんな「絶望」の中でも人は前向きに生きていくことができるという強さをいろいろなところで感じました。つらい現実に、療養所の壁を見たくないから壊してくれ、無くしてくれ、という人もいたそうです。つらいことを思い出す風景がそこに、いっぱいあるじゃないですか。でもそれを残して伝えていくんだっていう思いも前向きなものだと思います。そういう「覚悟」みたいなものを感じました。人間の強さみたいなものを教えられた感じですね。

撮影している時に、よく友人に言われたのですが、そういうところに行くと、気持ちが落ちてしまわないのかと。それは逆で「人生の師匠」に会いに行ってるような感覚だったんです。辛いこと乗り越えて今も力強く生きている方々に力をもらって帰ってくるような感覚があったので、自分自身はまったく重くならなかった。だいたい師匠って厳しいじゃないですか。でも会うといろいろな学びがあり、力をもらえて頑張ろうという気持ちにもさせてくれる。そういう人に会いに行ってる感覚でした。そこで誰かに会わなかったとしても、その場所に行くことでいろいろなことを教えてもらえる場所です。ですから、重たい気持になるとか、辛い気持ちになるよりも、むしろ元気をもらって帰ってくるという感じでした。本当に力強く生きている人たちが確かに存在しているので、エネルギーをもらって帰ってきているんです。それがすごく僕としては心地いい。そういった生きるエネルギーみたいなものが自分の撮った写真に少しでもあればいいなと思っています。


2021.10 掲載

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