ひろげよう人権|東京人権啓発企業連絡会

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有識者から当会広報誌「明日へ」に寄稿していただいた記事の転載です

金子雅臣:ハラスメント最新事情 ~決めるのはアナタではない~

プロフィール

金子 雅臣(かねこ まさおみ)

東京都庁にて長年、労働相談に従事。
労働ジャーナリストとしての執筆のかたわら、’08年に一般社団法人職場のハラスメント研究所を立ち上げ、企業向け講演、DVD制作などを手がける。
現在は、研究所所長の他、葛飾区男女平等苦情調整委員、日本教育心理学会、成蹊学園のスーパーバイザーなどを務めている。

著書:
『壊れる男たち』(岩波新書)『部下を壊す上司たち』(PHP)
『職場いじめ』(平凡新書)『ホームレスになった』(筑摩文庫)
DVD監修:
『マタハラのない職場づくりのために』(ASP)
『なくそう!職場に潜む心の病』(映学社)などがある。

ハラスメントが再び話題に

2018年は何かとハラスメントが話題になった年として記憶されることになりそうである。国際的な#Me Too運動があり、国内ではある官僚のセクハラ事件をはじめとして、とある市長など地方自治体での事件も多かった。恐らく、1989年の「セクシュアル・ハラスメント」が流行語大賞を受賞して以来のハラスメントの注目度が高かった年だったといえる。

そんな世相に敏感に反応したTVドラマの世界でも、開局55周年特別企画と銘打って「ハラスメントゲーム」というドラマが放映されて話題になった。私も、このドラマのハラスメント監修などをやらさせていただいて、あらためてハラスメントが様々に話題になっていることを身をもって知らされることにもなった。
そんな制作現場でのこぼれ話であるが、皆さんは「カスハラ」「ジェンハラ」などというハラスメントをご存じだろうか。劇中でコンプライアンス室員である高村真琴が発するセリフに何度か登場した言葉である。
正解は「カスタマー・ハラスメント(顧客から受けるハラスメント)」「ジェンダー・ハラスメント(オンナのくせに、オトコのくせになど、性別決めつけによるハラスメント)」の省略形である。さすがに「こんなわかりにくい言葉の使用は止めた方がいいのでは……」というのが私の意見だったが、現場は流行らせることも計算してか使用に踏み切った。
結果は、それなりの認知を受けて、今やある程度の人たちの理解できる言葉になりつつある。まさに流行、マスコミの力あなどるべからずというところだろうか。今や30数種あると言われるハラスメントであるが、こうした広がりがやや鬱陶しいという言葉も聞こえてき始める昨今である。

しかし、そもそも「ハラスメント」の語源が「悩まされる」「困らせられる」というものであれば、現代社会にこうした種が尽きない限り、言葉は増え続けるのも仕方がないことかもしれない。その一方で、こうした広がりがありながらも、様々な事件を通じて、依然として、その本体が見えていないことも明らかになったような気もしている。
まさに流行語大賞の年から30年、依然として理解が進まない日本は今や、こうしたハラスメントの理解できない、つまり人権意識の低い国として国際的にも注目されはじめている。世界経済フォーラムが1年に1回発表するジェンダー指数でも100位以下のポジションを堅持し、「先進国中での下位」という表現は、今や「世界の下位」という評価に定着しはじめている。

なぜ、こんなことになっているのか。なぜ、ハラスメントが理解できないのか、2018年の出来事のなかで、もう一度ハラスメントとは何かを考えてみることにする。

被害相談

時代錯誤発言も

冒頭に申しあげたある官僚のセクハラ発言は、いろんな意味で世間にショックを与えた。週刊誌報道によれば追っかけ取材をしていた女性記者に「胸を触っていい?」「手縛っていい?」などというトンでも発言をしたということだから、まさにセクハラということになったわけである。

ところが、この報道を受けて官僚のトップともあろう人がどうしてこんな下品な発言をするのかという驚きもさることながら、その官僚が「セクハラには該当しない」と釈明したことに2度驚かされたというところだろうか。
「時には女性が接客しているお店に行き、お店の女性と言葉遊びを楽しむようなことはある」と弁明して、その場面が行きつけのバーかキャバレーのような場所であることを認め、あくまで「言葉の遊び」だったと主張した。つまり、日本の多くの男性がしているように時間外にそうした場所に飲みに行って言った言葉であり、世の男性たちが皆していることなのに、なぜ私だけが問題になるのかということである。

こんな官僚をかばった担当大臣の相次ぐ発言も問題になった。「本人も認めていないし、事実かどうかわからない」からはじまって「調査する必要もないし、処分するつもりはない」などと言った。つまり、「たかが言葉のセクハラで処分しなければならないのか」ということである。
さすがにこうした発言は「何時の時代の感覚か」などとマスコミから叩かれて、「行為者にも人権がある」「ハニートラップだという人もいる」などと逃げに回り、最後は「日本にはセクハラ罪はない」などと開き直ったが、何をかいわんやという感じである。

もはや、世界的にも法律でセクハラを禁止する国は60カ国を超えており、まさに先進国の多くは法規制を強めている。担当大臣の頭には、こうした時代感覚はなく、依然として押し倒したり、強引にキスをしたり、身体に触ったりしたらダメだが、たかが言葉なら実害がないし別に問題ない……ということだろう。しかし、そんな理解ではあまりにも時代錯誤もはなはだしいということになる。

セクハラは誰が判断するのか

述べてきたセクハラ事件に関連して、一国の担当大臣がこうした発言を平然としていることで国際的にも嘲笑を受ける事態になり始めている。まさにオリンピック開催を目前にした国としては危機意識を持たなければならない事態ということだと思う。しかし、こうした意識は、関係者の一部のみならず現在の日本の人権水準を示すものであることに危機感を感じざるを得ない。

一体、日本社会は、この30年をかけてどのくらいハラスメントを理解してきたのだろうかということである。私は、この問題に携わってきた当事者としてはまさにミリ単位でしか理解が進んでこなかったと感じている。
まさに、彼らのふりをみて「セクハラとは何か?」をもう一度立ち止まって考えて欲しいというのが私の偽らざる気持ちである。ひょっとすると世間も含めて、こうした問題についての理解が今回の官僚や担当大臣と五十歩百歩かもしれないと思うからである。

ちなみに、皆さんにあらためてこの官僚発言のどこが、なぜセクハラなのかを考えて欲しい。多くの人たち、マスコミを含めて判断したポイントは「発言があまりにも下品でエッチだから……」という感じじゃないだろうか。エッチで下品だからという判断もそれはそれで根拠にはなるが、そんな基準は個人差がある受け止め方でいくらでも変わりうる判断基準である。つまり担当大臣のように「この程度のことはいいんじゃないの」という人も出てくるという判断基準になる。
下品とかエッチというのであれば、むしろストレートにそう言えばいいので、何もセクハラなどという必要はない。セクハラを下品な発言ととらえて、こうした判断にとどまっている限り個人の受け止め方の問題になり、人権の問題と言われるセクハラの理解には程遠い。

さて、それではもう少し、人権感覚を含めてセクハラ判断を進めるということを考えてみよう。その手掛かりになるのが、セクハラに関して言われ続けている次のようなことである。

1.余りにも下品でエッチなことを言うのはセクハラになる。
2.セクハラを判断するのは被害者である。


「1」については、繰り返してきたように、今や常識化している理解と言ってもいい。飲み会などでも下品な会話は「それはセクハラだ」などと男性同士でも注意をし合う光景が見られるほどであり、定着してきている現実といってもいいだろう。問題は「2」の方である。

被害1

オンナが判断するのか?

これも冒頭に申しあげたとある市長も、誰が判断するのかに関わって退職間際に迷言を残した。「セクハラをしたのか」と問われて「名乗り出た人たちがハラスメントを受けたと言っている。私の認識とのズレはあるけれど、受けた人がハラスメントと言っている以上、認める必要がある」と言った。

しかし、被害者の言い分を認める一方で、「今でもセクハラだとは思っていないのか」と問われると「思ったことがない。(セクハラのレベルにあるという認識はない。)被害にあった人とは20~30歳、歳が離れている。私の育ってきた環境と、彼女たちが育ってきた環境にかなり開きがある」と答えている。
更に「どこを反省するのか」を問われて「近くに座って親密感を醸成しようとしてきたが、そういう懇親は改めた方が良いと聞いた。最近は女性のそばに寄らないように戒めてきた」と述べた。

これも重大な勘違いを含んだトンでも発言ではあるが、「受けた人がハラスメントと言っている以上、認める必要がある」というのは正解である。彼の本心は「決めるのは俺じゃないというなら仕方がない。勝手にしてくれ」という捨て台詞ということなのだろうが、意図は別にすれば言っていること自体は間違いではない。まさに「決めるのはアナタではない」からである。
「セクハラを判断するのは被害者の女性である」などと言うと「えっ、オンナが勝手に判断するのか」「男としてはそれは困る。オンナの気持ちなんか分からない」という判で押したような反応がいまだに返ってくる。

本当にそうなのだろうか。今回の官僚発言で言葉の下品さもさることながら、相手の女性が受けた不快感を想像できない人はほぼいないだろう。取材目的で行った女性記者がおおよそ取材とは関係ない下品な言葉を言われたのである。突然殴られたに近いショックを受けたことは想像に難くない。実際マスコミも含めて男女を問わず多くの人たちは「あれはセクハラだ」と即座に反応したことからもわかる。

更に言えば判断するのはオンナではなく被害者である。セクハラの被害者の多くは女性であることから「オンナが判断する」という風説が広がったが、正確に言えば「被害者が女性であればオンナが判断し、男性であればオトコが判断する」のである。
そして、この被害者の判断は「その職場での平均的な受け止め方である」ことが要求される。つまり、その職場の多くの人の判断でどうなのかということである。そういうことであれば、「男であれ、女であれ、あそこまで言われたら不快だよね」というごく普通の判断が共通にできる基準だということなのである。

被害2

決めるのはアナタではない

まさに、もはや男であれ女であれ、職場であそこまで言われたり、あそこまでされたら不快だという受け止め方に差は少なくなってきている。そのことを前提に、「お互いに相手の気持ちを理解する」ことをベースにすればいいということに過ぎない。

その意味で、セクハラについては、被害者目線を中心に、男性も女性も共通の理解を深めようという時代に入ったということなのである。そんな時に、何とハラスメントの啓発のために内閣府が出した相変わらずの男性目線でのポスターが問題になった。
「今日の服かわいいね。俺の好みだな」「痩せて奇麗になったんじゃない」と男性俳優に言わせて、「これもセクハラ」という旧態然たる男性目線のセクハラ感を打ち出した。これは、言われる側の目線ではなく、言う側の目線であり、少なくとも男女で共通の理解を深めようという視線のものではない。

これまでの男性目線でのセクハラではなく、男女共通の理解を求めようとしているサイドから批判が出たのは当然と言えば当然である。まさに「決めるのはお前ではない」ということで猛批判を浴びて改訂せざるをえなくなった。

内閣府のポスターはその意図とは別に「セクハラを判断するのはアナタではない」ことを再確認するいい機会になった。今、ようやく日本では、セクハラは「下品な発言」が判断ポイントではなく「行為者のアナタが判断するのではない」ことへの理解が少し進んだことになる。しかし、まだまだ本当の理解(国際水準)への道は険しい。

DVD監修 主な著書

2019.8掲載

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