ひろげよう人権|東京人権啓発企業連絡会

クローズアップ

有識者から当会広報誌「明日へ」に寄稿していただいた記事の転載です

大胡田誠:対話こそが共生社会を開く鍵
~全盲弁護士「障害者差別解消法」を語る~

プロフィール

弁護士法人つくし総合法律事務所 弁護士
大胡田 誠(おおごだ まこと)

1977年静岡県中伊豆町(現:伊豆市)生まれ
先天性緑内障により12歳で失明する。
筑波大学付属盲学校の中学部・高等部を卒業後、慶應義塾大学法学部を経て、慶應義塾大学大学院法務研究科(法科大学院)へと進む。
8年におよぶ苦学の末に、2006年、5回目のチャレンジで司法試験に合格。全盲で司法試験に合格した日本で3人目の弁護士になった。
渋谷シビック法律事務所を経て、現在、弁護士法人つくし総合法律事務所に在籍。一般民事事件や企業法務、家事事件のほか、障がい者の人権問題にも精力的に取り組んでいる。
著書に「全盲の僕が弁護士になった理由~あきらめない心の鍛え方」(日経BP社)がある。

自己紹介

全盲弁護士の仕事
私が弁護士となってから、早いもので7年半が過ぎました。

この間、民事、刑事を合わせて300件を超える相談や事件処理に携わってきて、ある程度仕事への自信もついてきました。しかし、それぞれの事件には常に固有の新しい問題が含まれていて、いくら経験を積んでも、弁護士の仕事には慣れるということがありません。

まず、全盲の弁護士である私が日々、どのような工夫で執務しているかについてお話します。
私の現在の仕事に欠くことのできないものの一つは、PCの画面読み上げソフトです。私は、これを用い、アシスタントがスキャナという機械を使ってデータ化してくれた訴状などの書面等を読み(聞き)、判例の調査や文書作成などを行います。何かの折に、他の弁護士やスタッフなどに読み上げソフトの音声を聞かせるとその速さに驚かれることがあります。

また、事務所が専任として付けてくれているアシスタントのサポートも私の仕事には不可欠です。例えば、活字の書面をスキャナを使って私にも読む(聞く)ことのできるテキストデータに変換してもらったり、データ化が困難な図表やグラフ、写真等を言葉で説明してもらうといったいわば机の上の作業から、刑事事件の接見、公判等への同席、参考資料のリサーチの手伝いまで、アシスタントはさまざまな場面で私の仕事を支えてくれており、まさに八面六臂の仕事振りです。

希望を手渡すこと
現在、私が担当している案件の多くは、処理の困難な事件も少なくなく、精神的にもプレッシャーのかかるものばかりです。

しかし、私は、日々の仕事の中でやりがいと充実感を感じることができているのも事実です。これは、おそらく、弁護士という仕事に憧れて、自らもその道を目指そうと決意したときの思いを、今、仕事の中で私なりの方法で具現化することができているからなのだと思います。

私は、先天性緑内障のため小学校6年生の頃に失明したのですが、多感な時期でもあり、その後しばらくは、自分の障害に強いコンプレックスを抱え、将来に希望を持つことができない時期が続きました。

しかし、中学生の頃、偶然、日本で初めて点字で司法試験に合格した竹下義樹弁護士が書いた「ぶつかってぶつかって」という本を手に取ったことが私の転機となりました。

ここに描かれた竹下弁護士の姿は、失明したことで自分の可能性まで失われたように思っていた私に、たとえどんな困難な状態にあっても、あきらめさえしなければ自ら道を切り開いていくことは可能なのだという希望と、いつか私も弁護士になりたいという目標を与えてくれました。

私の事務所には、さまざまな理由から現在の社会の中で生きにくさを感じ、希望を喪失している方が多く相談に来られます。自殺未遂の常習の方もいれば、相談中に、「もう死んでしまいたいですよ、先生」と言われることも珍しくありません。決してたやすいことではありませんが、私にとり、法的な知識や経験を通じて、そのような方たちの荷物を少しでも軽くして差し上げることが弁護士としての本懐です。

時には、事件が一段落した後、「先生のような方とお会いできて、自分ももう一度がんばろうと思いました」などと言ってくれる方がいたり、服役中の男性から、「先生に大変お世話になったので、私も、刑務作業で点訳をすることにしました」などという手紙をもらうこともあります。そのような時、私が竹下先生の本からいただいた希望を、私も形を変えて手渡すことができたのかな、と、少しうれしい気持ちになるのです。

日本社会の中にある心のバリア

ところで、次に少し私の趣味の話しをしたいと思います。私は、海外旅行が大好きで、これまでに欧米、アジア、アフリカなど、10カ国ほどを訪れてきました。

海外を旅行すると、日本の交通機関や公共施設などのバリアフリーは、世界的に見てもとても進んでいるのだということに改めて気づかされます。例えば、これまで私が旅行したどの国の都市においても、街中で音響式信号機や点字ブロックなど、視覚障がい者の歩行を助けるための設備は、米国西海岸などのごく一部の例外を除いて、ほとんどと言ってよいほど見当たりませんでした。

このような街では、視覚障がい者が1人で外出するのはさぞや大変だろうなと思う一方で、海外ではよく、人々の「心のバリア」の低さに驚かされることもあります。

以前、私はグアムでスカイダイビングをやったことがあるのですが、「全盲の視覚障がい者でもできるだろうか」と内心ドキドキしながら受付で申し込みをすると、「ノープロブレム! 障害のある人もみんな飛んでるよ」という陽気な返事が返ってきました。障がい者だって「危険な遊び」くらいするさ、といった調子です。

また、ハンブルグのホテルではこんなことがありました。そのホテルでは、シャンプーやリンスなどのボトルの形状が皆同じだったため、触って区別することができず、困ってフロントに電話すると、ほどなくして客室係の男性がやってきて、「バスジェルには輪ゴムを、シャンプーには大きなクリップ、リンスには小さなクリップをつけてみました。これでいかがでしょう」と言って、私の手を持って、それぞれのボトルを確認させてくれました。

ところで、日本では、この「心のバリア」というのにはよく悩まされます。「火が出たら危ないから」という理由で学生寮への入居を断られたこともありましたし、盲導犬を使用している妻とコーヒーショップに入ろうとしたところ、「盲導犬であっても、犬を連れてご入店いただくことはできません」と言われて、コーヒーの代わりに「苦い涙」を飲まされるなんてこともありました。

来年4月から、このような、日本の障がい者の生活を変えることになるかもしれない重要な法律が施行されます。それが、「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」、略称「障害者差別解消法」です。以下、この差別解消法の紹介を中心に、障がい者と健常者が一緒に生きる社会とはどういう社会なのかを考えてみたいと思います。

大胡田弁護士を支える7つ道具

白杖(はくじょう)画面読み上げソフト視覚障がい者用腕時計点字電子手帳
スマートフォン点字板&点筆レイズライター(表面作図器)

障害者差別解消法ってどんな法律なの?

「みんなちがってみんないい」
多くの法律では、冒頭にその法律がなぜ作られたか、法律の目的が何であるかなどが書かれています。障害者差別解消法も、第1条に次のように書かれています。「障害を理由とする差別の解消を推進することによって、(中略)全ての国民が、障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資すること」というのがそれです。

法律の文言というのは往々にしてわかりづらく、普通は読んでも頭が痛くなるようなものばかりなのですが、障害者差別解消法のこの第1条は、「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。」という、金子みすゞのあの有名な詩を彷彿させるような、なんだか胸の奥が暖かくなるなかなかの名文だと思います。
差別を解消するための2本柱
では、どのような方法によって差別を解消していくのかというと、大きな柱が2つ示されています。

1本目の柱は、国などの行政機関と民間事業者に対し、障がい者に対する不当な差別的取扱いを禁止すること。2本目の柱は、国などの行政機関には法的義務として、民間事業者には努力義務として、障がい者に対し「合理的配慮」を提供することを求めていることです。以下、それぞれの柱について説明したいと思います。
不当な差別的取り扱いの禁止について
障害者差別解消法は、行政機関や民間事業者を対象とし「障害を理由として障害者でない者と不当な差別的取扱いをすること」を禁止しています(同法7条1項、8条1項)。

そして、ここにいう障がい者に対する不当な差別的取り扱いとは、内閣府が示した基本方針によれば、障がい者に対して、「正当な理由」なく、(1)障害を理由として、財・サービスや各種機会の提供を拒否すること、(2)提供に当たって場所・時間帯などを制限すること、(3)障がい者でない者に対しては付さない条件を付けることなどにより、障がい者の権利利益を侵害することだとされています。

事務所での打合せ風景
ポイントとなるのが、「正当な理由」というところです。障がい者を区別したりサービスの提供を拒否したとしても、その区別や拒否に「正当な理由」があれば、不当な差別的取り扱いにはなりませんが、「正当な理由」なく障がい者を区別したりサービスの提供を拒否したりすると、それは法律で禁止されている不当な差別的取り扱いであるとされます。

では、どのような場合に、「正当な理由」があるといえるのかというと、同基本方針では、客観的に見て目的が正当で、区別や拒否をすることがその目的に照らしてやむを得ないといえる場合が「正当な理由」のある場合だとなっています。すなわち、偏見や思い込みによって障がい者を健常者と区別したりサービスの提供を拒否したりすることは法律違反ですが、誰が見ても障がい者を区別したりサービスの提供を拒否したりすることがやむをえないといえるような場合にはそのような扱いも許されるとされているのです。

たとえば、私についていえば、前述のとおり、「火が出たら危ないから」といわれて学生寮に入れてもらえなかったり、「盲導犬は入店できません」と言われて盲導犬を連れている妻と一緒にコーヒーショップに入るのを拒否されたことがありました。

このような区別や拒否の背景には、「視覚障がい者がガスレンジなどを使ったら火事を起こすかもしれない」とか、「盲導犬が店に入ったら衛生的に問題があるに違いない」という意識があるのだと思います。しかし、実際のところ、視覚障がい者は目の見える人よりも火事を起こす危険性が高いという客観的なデータはありませんし、盲導犬は、ユーザーが注意して常にケアをしているので、場合によっては不潔な人間よりもむしろ衛生的なくらいです。そうすると、このような区別や拒否には、「正当な理由」がないので、障がい者に対する不当な差別的取り扱いであるということになります。障害者差別解消法では、このように、思い込みや偏見に基づいて障がい者を区別したりサービスの提供などを拒否してはいけないとされたのです。

もっとも、障がい者を区別したり拒否したりする場合、それが思い込みや偏見に基づくものだと気づかない場合があります。重要になってくるのが障がい者と障害のない人の間の対話です。障がい者は粘り強く自分のできることとできないことについて伝える努力を重ねなければならないし、一方、障害のない人も、対話を通じて、自分の心の中に「バリア」がないか、もう一度考えてみることが必要なのではないでしょうか。
合理的配慮の提供義務について
PCでの作業
障害者差別解消法では、差別を解消するための措置のもう1つの柱として、国や地方公共団体などの行政機関と民間事業者に対し、障がい者が求めた場合、これに対応して合理的配慮を提供すべきことを定めています(同法7条2項、8条2項)。ここにいう合理的配慮とは、障がい者の実質的平等を確保するために行う手助け、施設の改良、補助手段の提供、ルールの変更などであって、その提供が過重な負担とならないものをいいます。

たとえば、内閣府の基本方針には、合理的配慮の例として次のようなものがあげられています。

1.車椅子利用者のために段差に携帯スロープを渡す、高い所に陳列された商品を取って渡すなどの物理的環境への配慮
2.筆談、読み上げ、手話などによるコミュニケーション、分かりやすい表現を使って説明をするなどの意思疎通の配慮
3.障害の特性に応じた休憩時間の調整などのルール・慣行の柔軟な変更

合理的配慮というのは新しい考え方なので、ここまで読んでもなんだかよくわからないという方が多いはずです。そこで、もう少しこの合理的配慮について説明します。

まず、社会の中にあるさまざまな配慮について考えてみましょう。

この社会の中には、多くの人ができないことは、それができなくても困らないように、既にたくさんの配慮がなされているのです。たとえば、多くの日本人は英語のスピーチを聞いても理解することができない。そこで、国際会議等には当然のように英語の通訳が配置されます。

しかし、「できない人」が多数いる場合には当然のように配慮が提供されるけれど、「できない人」が少ない場合には、現在の社会では、当然には配慮が提供されていません。前の例でいえば、会議に、英語の通訳は配置されても、聴覚障がい者のために手話通訳者が配置されるということは多くありませんね。

このように、「できない人」が少ないために、現在、社会の中で当然には配慮が提供されていない場合に、それを必要としている障がい者からの求めに応じて社会の側が配慮を提供し、障がい者であっても、障害のない人と平等に社会に参加できるようにすることが合理的配慮です。

次に、合理的配慮と公共交通機関などのバリアフリーの関係についても説明してみます。

駅などの公共交通機関、ホテルや劇場などの公共的施設にエレベーターや点字ブロックなどを設置するバリアフリーは、不特定多数の障がい者の利便性を高めるために行われるもので、これは、障害者差別解消法の中では、「事前的改善措置」という位置づけがされています。

これらのバリアフリーの取組みによってできる限り条件整備を行い、それでもまだ残る不便を取り除くため、個々の障がい者の申出によって提供されるのが、合理的配慮です。

このように、障がい者に立ちはだかるバリアを取り除くためには、不特定多数の障がい者の利便を向上させるためのバリアフリーの取組みと、個々のニーズに見合ったきめ細やかな配慮である合理的配慮が不可欠であり、これらはいわば車の両輪です。

私は、行政機関や民間事業者に合理的配慮が義務付けられたことにより、障がい者と健常者との間で、障がい者が抱える困難の解決の方法について、相互に対話を行うための共通の基盤ができたと考えています。

これから、社会のいたるところで、障がい者と健常者の間に建設的な対話が生まれ、その対話の中で、社会を変えるための方法が発見されていく、日本社会が、そんな方向に進んでいけばと期待しています。

結び

子どもの頃、友人と砂山の両端から穴を掘り始め、2人で小さなトンネルを貫通させるという遊びをしたことがあります。

障害者差別解消法ができただけで、すぐに社会が変わるということはありません。しかし今、対話という方法で、健常者、障がい者双方から、社会に存在するさまざまなバリアに穴を掘るための道具ができたことは間違いありません。

最初のうちはいろいろな摩擦があるでしょう。でも、きっとトンネルの向こうにはこれまで見たことのない新たな地平が開けているはず。まずは、障がい者と健常者が対話を通じて、一歩ずつ歩み寄ることが始まりです。

ところで、私は、障がい者の社会参加を考えるとき、野球のメジャーリーグを思い浮かべます。ひと昔前までは、メジャーリーグでは日本人選手は太刀打ちできないと思われていました。しかし、1995年に野茂英雄投手がメジャーに挑戦して活躍したことによって、次々と日本人が進出するようになり、イチローや田中将大投手など、今では多くの選手がチームの主軸にもなっています。

本当は日本の選手の実力は、野茂投手が行くかなり前からその水準に達していたのではないでしょうか。でもほとんどの人がそうは思わなかったから、実現しなかった。健常者と障がい者の関係は、野茂投手が渡米する前のメジャーリーグと日本球界のようなもので、健常者側は、障がい者の実力をまだよく分かっていないし、障がい者の側も、自分の実力では「メジャー」では太刀打ちできないと思ってしまっている、そのように私は感じるのです。

だから、健常者側は、障害のある挑戦者たちにチャンスを与えてほしいし、障がい者の側も勇気を出して一歩を踏み出すことが大切なのだと思います。人はどうしても失ったものの大きさに目を奪われて、まだ手元にどれだけ多くの可能性が残されているのかを忘れてしまいがちです。でもその可能性を開花させることができれば、その人自身が一つの前例になり、障がい者に対する社会の意識も変わっていくはずです。近い将来、健常者と障がい者が、同じ「社会」というフィールドの上で、切磋琢磨しあいながら一緒に全力でプレーできる日が来ることを願いつつ、今回のエッセイを終わりたいと思います。

2016.2掲載

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