ひろげよう人権|東京人権啓発企業連絡会

クローズアップ

有識者から当会広報誌「明日へ」に寄稿していただいた記事の転載です

越智貴雄:パラスポーツからの贈り物

プロフィール

写真家
越智 貴雄(おち たかお)

1979年大阪生まれ。大阪芸術大学芸術学部写真学科卒業後、ドキュメンタリーフォトグラファーとして活動開始。ライフワークとして2000年からパラリンピックスポーツの撮影取材に携わり、2004年パラリンピックスポーツ情報サイト「カンパラプレス」を立ち上げる。2013年、東京オリンピックパラリンピック招致の最終プレゼンテーションで佐藤真海選手の「跳躍写真」が使用され“五輪を呼んだ一枚”と言われ話題となる。2014年、義肢装具士・臼井二美男氏の制作した義足を履く女性たちにフォーカスした写真集『切断ヴィーナス』(白順社)を出版。写真展やファッションショーなどのイベントも開催し、多くのメディアに取り上げられている。
一般社団法人 カンパラプレス
http://www.kanpara.com/

パラリンピックとの出会い

私とパラリンピックとの出会いは、2000年のシドニー大会です。初めてパラリンピックを見た時、私の体中に衝撃が走ったのは、今でも忘れられません。

当時、大学2年で写真学科に通っていた私は、報道ゼミの教授からオリンピックの素晴らしさを何度となく聞かされていました。次第に「シドニーオリンピックを撮影したい」という気持ちが強くなり、大学を休学してアルバイトで貯めたお金を握りしめシドニーへと渡りました。

現地で数社のメディアに自分の写真を売り込み、運良くある新聞社から写真と記事を掲載してもらえることになりました。連日、オリンピック選手の迫力あるパフォーマンスを間近で見て、会場や街のお祭り騒ぎのような賑わいを肌で感じ、初めての取材はとても有意義な経験でした。

オリンピックの高揚感が残る中、帰国準備をしていた私に、別の新聞社から二週間後に開催されるパラリンピックの撮影依頼がありました。私は「ぜひとも撮影させてください!」と即答していました。しかし、大会が近づくにつれ、だんだん不安と緊張に襲われ始めたのです。

「そもそも障がいを持つ人にカメラを向けていいのか?」
「失礼にあたらないのだろうか?」

そんな思いが頭の中を駆け巡りました。当時、私は障がい者を「かわいそうな人」「常に手助けを必要としている人」などと勝手に思い込んでいたのです。しかし、その根拠のない思いは、パラリンピックで競技する選手たちを見た途端、どこかに吹き飛んでしまいました。

人間ってすごいなぁ

車いすバスケットボール
一番初めに見た競技は、車いすバスケットボールでした。会場に響きわたる車いす同士が激しくぶつかり合う金属音、車いすごと激しく転倒してもすぐさま自分で起き上がる運動能力、車いすの片輪を数秒間宙に浮かせてのシュート……何もかもが想像を超えたパワフルなパフォーマンスばかりで、あっという間に魅了されました。
 特に、観客席がどよめいた競技は、脚の太ももから下を切断している選手による走り高跳びでした。選手はスタートラインまで松葉杖で移動、スタートの合図と共に松葉杖を下に置いて片足でケンケンの助走をし、1メートル87センチを跳んだのです。あまりのすごさに度肝を抜かれ、一体何が起こっているのか、しばらく状況が飲み込めなかったのを覚えています。

人間の持つ潜在能力と可能性、そして選手の力強さに感動し「人間ってすごいなぁ」と興奮しながら、無我夢中でカメラのシャッターを押し続けていました。

陸上男子100m(T43・44クラス=大腿切断)

帰国後、銀座ニコンサロンでシドニーパラリンピックの写真展を開催しましたが、何人かの来場者の方に「こんな激しいスポーツをして障がいがさらに重くならないんですか。かわいそう」と言われました。ショックでした。自分の感じたことを写真で伝えきれていないと思い、悔しくて仕方がありませんでした。

そしてそれからは、国内外でパラスポーツ(障がい者スポーツ)大会があれば、できる限り撮影に出掛けるようになりました。

ライフワークへ

2004年ごろには、パラリンピックと選手の魅力にどっぷりと浸かり、大会へ行くのがライフワークになっていました。一方で、私は日本のパラリンピック報道に、ずっと不満を感じていました。オリンピックに比べると露出が極端に少なく、報道されたとしても記録や大会の表面的な情報ばかりで、選手やパラリンピックの魅力を伝える媒体がほとんどなかったからです。

そこで2004年、自らパラリンピックスポーツの専門WEBサイト「カンパラプレス」を立ち上げました。カンパラとは、「感じるパラリンピック」の略です。パラリンピックを先入観なく感じたまま受け止めてほしいという意味を込めました。サイトでは、クオリティーの高い写真と記事でパラリンピックの面白さと迫力、選手の生き方や情熱を感じてもらえるように心掛けています。

今では日本だけでなく、海外の素晴らしい選手や取組みも取り上げるようになりました。

アクシデント

そして2011年8月、アクシデントに見舞われました。韓国テグの世界陸上で撮影中にぎっくり腰になったのです。その後、椎間板ヘルニアによる間欠性跛行(はこう)も患い、仕事はだましだまし続けましたが、年末には、ほぼ歩くことが困難になりました。

回復の兆しがない中でこのままでは写真の道を断念せざるをえないかもしれないと覚悟しました。そして考えた末、2012年10月、カメラマン人生を集大成するつもりで、12年間撮影してきたパラリンピックの写真展を六本木フジフイルムスクエアで開催しました。

その写真展にスウェーデンのカメラメーカー、ハッセルブラッド・ジャパン代表のウィリアム氏が来場、私の写真と活動を称賛され、「全面的に撮影協力をしたい」との申し出があったのです。

写真展終了後、ハッセルブラッド社に招かれ、私は同社のカメラを手に取りました。しかし、重くて腰に激痛が走りました。「やはり無理かもしれない」と諦めかけた私を、ウィリアム氏が「君なら絶対にできる」と強く励ましてくれたのです。その言葉に私は勇気をもらい、本格的に治療に専念して出直そうと決心しました。

それから毎日、病院を探し、たどり着いたのが石川県のある病院でした。2カ月間の入院治療中、私は毎日、退院したら何を撮影しようか、ということばかり考えていました。ある時、頭をよぎったのが義肢装具士の臼井二美男さんの「いい義足ほど、履きつぶされて、形に残らないんだよね」という言葉でした。

切断ヴィーナス

切断ヴィーナス 退院後、私はすぐに臼井さんに会いに行き、自分の思いをストレートに伝えました。

「臼井さんの義足は芸術品だと思います。義足ユーザーのあらゆる要望に応え、どんな難しい義足作りにも挑戦していく姿に感服します。その義足を撮影したいのです」と。

すると臼井さんから、「義足を隠さなければいけないと考える人がいる」と返ってきました。それならまずは、臆せず隠さずにいる人を撮りましょう、誇らかに見せている女性を撮影しましょうと話が進み、『切断ヴィーナス』プロジェクトがスタートしたのです。

まずは6人の女性を撮影しました。もちろんカメラはハッセルブラッドです。撮影後の写真展はテレビや雑誌などでも取り上げられ、評判も好評でした。共感する人が増え、何かが変わっていく予感がしました。

切断ヴィーナス

その一つが、『切断ヴィーナス』の出版です。ある出版社から、写真集出版の依頼を受けたのです。内容を充実させるために、さらに5人の女性を撮影しました。

当初から撮影で一番大事にしたことは「本人の個性」です。撮影前に何度も話し合い、衣装や撮影場所などは彼女たち自身が決めました。中には自分でスタイリストとヘアメイクを連れてくる人もいて、みんな楽しんで撮影に参加してくれました。撮影に約1年かかりましたが、合計11人の義足の女性たちの協力を得て、彼女たちの世界観を存分に表現した写真集『切断ヴィーナス』(白順社)を、2014年に出版する運びとなりました。

ファッションショーへ

『切断ヴィーナス』出版後、もっと彼女たちの魅力を感じてもらおうとファッションショーを企画しました。

第1回は、障害者週間(毎年12月)に合わせて、ファッションブランドの服で「義足のファッションショー」を行いました。

切断ヴィーナスショー in 石川県中能登町

切断ヴィーナスショー in 石川県中能登町

切断ヴィーナスショー in 横浜切断ヴィーナス

切断ヴィーナスショー in 横浜

第2回は、障がいというくくりを取っ払い、横浜のカメラショーの舞台で「切断ヴィーナスショー」を行いました。本人たちが思いどおりの衣装と曲に合わせてポーズを取る様子はテレビや新聞、ネットなどで世界中に報道され、大きな反響を呼びました。その結果、多くのオファーを受け、第3回の「切断ヴィーナスショー」は石川県の中能登町の夏祭りを舞台に選びました。 石川県は、私が腰の治療のために入院した地です。何かのご縁を感じ、腰が回復したことへのご恩返しの気持ちも込めてこの地にしました。

中能登町は昔から繊維産業が盛んで『織物の里』と呼ばれ、世界一の繊維技術が多くありますが、近年、安い輸入製品に押され、技術の海外流出、高齢化、後継者不足など、繊維技術の継承が危ぶまれています。この状況の打開策として2015年7月に創設された繊維技術者の集団「FIBERS CREATORS」と『切断ヴィーナス』とのコラボレーションを企画し、モデル一人ひとりに合わせて、着物や帯をオーダーメイドで町の技術者に作ってもらいました。

ファッションショーを見た観客は、初めは戸惑っていたようですが、徐々に拍手が増え、笑顔で楽しむ人や涙を流す人もいました。ショーが終わった後には、モデルたちを地元の子どもたちや女子高生が囲み、一緒に写真を撮ってほしい、義足を触らせてほしいといったコミュニケーションが広がっていました。

なぜファッションショーに出るのか?

ファッションショーに出る理由を義足のモデルたちに聞いてみました。

「障がいを持ってからはファッションを心から楽しめなくなった。ファッションショーに参加すると心から楽しめる気持ちを取り戻せそうな気がする」

「おしゃれをしたいと思うとおしゃれな義足がほしくなり、ヒールが履きたくなるとヒールが履ける義足がほしくなる。義足は歩いたり走ったりするだけのものじゃない、ということを多くの人に見て知ってほしい」

「義足を見た子どもに母親が『見てはいけません』と注意するのは、普段義足を見慣れていないからだと思う。私のカッコいい義足を多くの人に見てもらう機会があれば、進んで参加したい」

「障がいを持った時に幸せな人生は終わったと思ったが、そう思った自分が実は障がい者は不幸だという偏見を持っていたと気がついた。障がい者でも幸せになれるし楽しいこともたくさんある。それを証明したくてファッションショーに出ているのかも」

彼女たちの言葉には力があります。彼女たちのおかげで写真集の出版やファッションショーが実現しました。腰痛で苦しんでいるころには想像もできませんでしたが、自分を信じて行動し続ければ、自分も周りも変えられるということを確信できるようになりました。

接する機会が増えると…

私がこれまで数多くのパラリンピック選手や障がいのある人と接してきて一番変ったことは、町で障がいのある人を見掛けても特別に意識をしなくなったことです。車いすや義足を見掛けると「どこのメーカーかな?」「カッコいい車いすだな~」と思うことがときどきあるくらいです。パラリンピック選手に対しても、一人の「アスリート」という感覚しかありません。

こういう感覚に至った理由は一つです。それはパラリンピック選手や障がいのある人たちと接する機会がとても多いからだと思います。接する機会が増えれば増えるほど、障がいという文字は頭の中から消え、浮かんでくるのはその人の性格や個性、生きる姿勢やスポーツに賭ける思いです。

最近は写真展やイベントを開催する機会が以前よりも増え、依頼があれば積極的に引き受けるようにしました。来場者の方からは「かわいそう」ではなく、「元気が出た」「障がいがある人が頑張っているんだから、私も頑張ろうと思った」という感想を聞くことが多くなりました。ただ、私の中では「障がいがあるからすごい」のではなく、「その人自身がすごい」と思ってもらえるような写真を撮りたいのです。

これから2020年の東京大会に向けて、障がい者の大会やパラリンピック選手に接する機会が増えていきます。ぜひ皆さんも積極的に出掛けて、自分の目で見て、自分の耳で聞いて感じてください。

2020年、あなたも参加してみよう!

2020年の東京大会では、選手や家族、関係者や観客を含め、世界中からものすごい数の外国人が東京を訪れます。特にパラリンピックの時期は、車いすや義足を利用する人、視覚に障がいのある人たちを、大勢見掛けることになるでしょう。一部では、東京大会を成功させるために、8万人のボランティアが必要だとも言われています。オリンピック、パラリンピックは、どの大会もボランティアの協力なくして成功はあり得ません。皆さんの力が必要なのです。案内、通訳、接客など、自分のできる範囲でボランティアに参加してみるのも、楽しい人生の選択だと思います。

ただ、2020年に東京大会で求められているのは、ボランティアだけではありません。実は、パラリンピック大会では、アスリートを支える人の存在なくして成立はしません。

例えば、視覚障がい者の陸上競技では、伴走者が不可欠です。伴走者は100mの短距離からマラソンなどの長距離まで、選手と一緒に走ります。ブラインドサッカーでは、目の見えるゴールキーパーとゴール裏に位置して、ボールや人の配置や距離・角度などを選手に伝えるコーラーと呼ばれる人も必要です。視覚障がい者の自転車競技では、2人乗り用の自転車にパイロット役の晴眼の選手が一緒に乗ります。

その他、各競技に合った車いすや義手、義足を制作、メンテナンスする人も必要です。さらには監督、コーチ、マネージャー、トレーナーなどたくさんのサポートする人たちを必要としています。

もちろん観客の声援も選手の大きな力になります。大会の成功には不可欠です。

選手の言葉

最後に私の尊敬するパラリンピック選手から聞いた、大切な言葉を記します。

「はじめて車いすに座ったとき、私にとって一つの扉が閉じた。でも、それ以上に多くの扉が開いたんだ」

「障がいとは目に見えるものではなく、自分自身が作り出す限界や壁、すなわち心の障がいである」

2016.1掲載

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