ひろげよう人権|東京人権啓発企業連絡会

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有識者から当会広報誌「明日へ」に寄稿していただいた記事の転載です

臼井敏男:部落地名総鑑事件から40年(最終回)

プロフィール

元朝日新聞論説委員
臼井 敏男(うすい としお)

1949年、岡山県生まれ
東京大学法学部卒業
1972年、朝日新聞社入社。宮崎支局、行橋支局、福岡総局、朝日ジャーナル編集部、東京社会部をへて、大阪社会部次長、東京社会部次長。1997年、論説委員、2000年、東京社会部長、2003年、論説副主幹。2009年、定年。引き続き、朝日新聞でシニアライターとして「ニッポン人脈記」を担当、「叛逆の時を生きて」と「部落差別をこえて」を執筆した。2010年、朝日新聞社を退職した

2009年4月~2011年3月 慶應義塾大学非常勤講師(取材論)
2012年4月~2015年3月 武蔵大学非常勤講師(隔年、新聞研究)
2013年4月~現在 中央大学経済学部客員講師
著書:『叛逆の時を生きて』(朝日新聞出版)、『部落差別をこえて』(朝日新書)

天辰さんへの取材で、もうひとつ印象に残った言葉がある。「部落差別を知って、自分自身が変わった」というものだ。

天辰さんは、部落地名総鑑が発覚したとき、会社で人事の担当者だった。しかし、それまで部落差別があることを知らなかった。故郷の鹿児島県に部落があることも知らなかった。部落解放同盟の人たちに批判されて初めて、部落差別に目を向けるようになった。

「そうすると、生まれた地域や住んでいる地域で差別されることがどんなに理不尽かがわかってきたのです」

東京同和問題企業連絡会の事務局を担当してからは、各地の部落を訪ねた。

「当時、道路を歩いていくと、道幅が急に狭くなりました。舗装もされていません。そこが同和地区なのです。そうした差別のなかに身を置いて初めて、差別される人の立場がわかりました。そうすると、自分も変わらざるをえなくなります」

「部落差別を知って、自分自身が変わった」というのは、天辰さんだけではない。企業で部落問題を担当する人たちは、ぼくの取材に対し、表現こそ違うものの、同じような内容を口にした。

「同和問題の担当になったのは、最初は会社の仕事でした。しかし、しだいに人間として、こんな理不尽なことがあっていいのかという気持ちになりました」

「同和問題を学ぶことで、在日の人たちやハンセン病元患者への差別など、さまざまな人権問題にも目を見開かされました」

「生まれや育ちなど、自分の責任でないことで人を見てはいけない。それが心の底からわかるようになりました」

企業で部落問題を担当する人たちは、多くの場合、みずから希望して担当になったわけではないだろう。たまたま人事の巡り合わせで、部落問題に取り組むことになった人がほとんどではないか。

なかには、部落問題の担当になったことに対し、「なぜ自分が営業からはずされるのか」と不満を抱いた人もいた。しかし、その人ものちには、「部落差別を学ぶなかで、差別は差別される側の問題ではなく、差別する側の問題だと気づきました」と語った。

部落差別を知れば知るほど、部落や部落の人に対する見方が変わり、無知だった自分を恥ずかしく思うというところが共通している。

2002年、33年間続いた同和対策事業の特別措置法が打ち切られて、同和対策事業が終わった。事業の打ち切りの理由について、政府は「同和地区の劣悪な生活環境が差別を再生産するような状況は大きく改善された」と説明した。

これを境に、国の取り組みは後退した。同和教育や自治体の取り組みは、地域によってバラツキが大きくなった。もちろん、同和教育や住民の啓発に熱心な学校や自治体は残った。しかし、同和教育や啓発をやめてしまった学校や自治体もある。全体で見れば、部落差別をなくすための学校や自治体の活動はしぼんだ。

同和対策事業の終了に先立って、2000年には、人権教育・啓発推進法がつくられていた。しかし、特別措置法と同和対策事業が終わるとともに、部落問題は終わったという空気が世の中に流れた。部落問題はさまざまな人権問題のひとつになった。自治体の担当部門の名称から、「同和」という言葉が消えて、「人権」に置き換わることが相次いだ。

東京同和問題企業連絡会が東京人権啓発企業連絡会に名称を変えたのは、1990年だった。大阪同和問題企業連絡会は2003年、「同和」の文字を残しつつ、大阪同和・人権問題企業連絡会に変わった。

企業が部落問題にとどまらず、在日外国人や障害者などの人権問題に幅広く取り組むのは当然のことだ。

しかし、さまざまな人権問題への目配りをすることで、部落問題への関心が薄まってしまうとしたら、それこそ本末転倒である。

同和教育がちぢむにつれて、学校で部落について教わらないまま、社会へ出る人たちが増えている。部落について知らないからといって、部落差別をしないわけではない。世の中には、部落への偏見や差別意識が漂っている。その偏見や差別意識にいつのまにか染まってしまうおそれがある。

とくに部落への偏見や差別意識があふれているのは、インターネットの世界だ。そこでは、少なからぬ人たちが部落への偏見や差別意識をまき散らす一方で、偏見や差別意識に感染している。そうした人たちも、企業の一員になっているかもしれない。同和教育がしぼんでいることを考え合わせれば、企業にとっては、社員がいつ深刻な部落差別を引き起こしても不思議ではないという危うい状況にある。

一方で、企業は社員を教育するうえで有利な立場にある。強制的に教育や研修をすることができるのは、学校を除けば、企業だけだからだ。行政が住民に対してやれることには限界がある。

さらに企業には、各地の企業連絡会を通じて培ってきた部落の人たちとの長年の付き合いがある。東京人権啓発企業連絡会も、部落を訪ねたり、部落の人と話をしたりする機会を重ねている。企業の部落問題の担当者のなかには、新聞記者よりも、部落の人との付き合いが深い人がいるだろう。

部落の人がなにを考えているのかを知り、部落差別を肌で感じるには、部落を歩き、部落の人とじかに接するのが一番いい。そうすれば、関心のなかった人も、部落や部落差別について、自分で考えざるをえなくなる。部落の人の顔が一人ひとり思い浮かぶようになれば、差別をすることなどは到底できなくなる。

部落差別に限らず差別は集団をひとくくりにするところから始まる。差別をなくすには、集団を遠くから見るのではなく、個人と個人が顔を合わせて付き合うことが大切だ。

部落問題への企業の取り組みは、部落地名総鑑の購入という就職差別から始まった。東京人権啓発企業連絡会の原点も、部落地名総鑑の購入にある。

その原点から発展した企業の活動は、就職差別をなくせば終わり、ということではない。企業にしみ込んだ差別体質を改め、企業の内外で部落差別をなくすことが目標だったはずだ。さらにいまでは、部落差別をなくし、人権を尊重することは、企業の社会的な責任になっている。人権を重んじる企業は、社会で評価が高まる。逆に人権をないがしろにする企業は社会で生きていけない。

1965年の同和対策審議会の答申は「同和問題の早急な解決は国の責務であり、国民的課題である」と述べた。

言うまでもなく、同和問題とは部落差別の問題であり、同和問題の解決とは部落差別をなくすことだ。

その答申のころに比べれば、差別をする人は減った。差別の頻度も少なくなった。しかし、部落差別はなくなっていない。

その意味では、東京人権啓発企業連絡会の歩みは道半ばにある。国や自治体、学校の活動がしぼんでいるいまこそ、企業の教育力への期待が高まっている。企業の人たちが原点に立ち返り、さらなる奮起をされることを望みたい。
部落地名総鑑事件から40年(その1)
・部落地名総鑑事件から40年(最終回)

2015.9掲載

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