ひろげよう人権|東京人権啓発企業連絡会

クローズアップ

有識者から当会広報誌「明日へ」に寄稿していただいた記事の転載です

東京人権啓発企業連絡会 広報委員会:三陸沿岸の復興状況に見る
~ 持続的な地域共生に向けて ~

2011年3月11日の東日本大震災から3年あまり。広報委員会では2014年6月、三陸鉄道の全線開通を復興進展の象徴と考え、地域の取組状況を学習することにしました。

主な移動ルートは、陸前高田市から大船渡市(太平洋セメント大船渡工場)、釜石市(宿泊先旅館)、宮古市(三陸鉄道本社)を経て、田野畑村から三陸鉄道北リアス線を久慈市まで北上しました。

3時20分の時計

陸前高田から北上するバスの車窓の光景に、これが3年を経た姿かと息を呑む思いでした。広大な更地に点在するうず高い盛り土は、まるで新たな開拓地のようです。残骸となった時計の針は、どれも3時20分で止まっていました。それは、津波の到達時刻なのです。

約2年を要した被災地域の瓦礫撤去が一段落、沿線約320カ所の被害に寸断された三陸鉄道も今年4月に全線開通を果たしました。しかし訪れた時点でなお、港は大型船が入港できず、JR山田線も再開不透明な状況でした。

更地を観察すると、家屋の基礎や駐車場の白線が、かつての生活の密集を証明しています。一方、内陸側を望めば、丘の斜面に家並みが何事もなかったかのようです。しかし、時折目にする仮設住宅には、避難生活の営みがあるのです。対照的な光景が、かえって喪失した町の賑わいを想わせます。津波は、地域の産業や生活の基盤を奪い、その到達線が住民の明暗を分けたのです。

津波の惨禍

7回押し寄せた津波の惨禍は、想像を遥かに越えます。その影響は地形によって異なり、高さ10m程度から時に30m位まで到達、川を遡上した津波は内陸で広がって、横や後ろからも巻き込みました。押し波はあらゆる物を引きはがし、瓦礫の奔流と化した引き波が全てを持ち去ります。その破壊力は凄まじく、コンクリートの橋脚は鉄筋が剥き出し、自動車やプロパンガスのボンベが発火して津波火災を起こしました。

大船渡から釜石、宮古を経て田野畑へと北上すると、国道の緩やかなアップダウンの随所に「浸水区間」の標識が出現します。長い区間を抜けると、津波が斜面を登ったのか、海岸線を見下ろす海抜に驚きます。延々と繰り返す有り様に、いかに避難が容易でないか、ようやく合点しました。

てんでんこ

「てんでんこ」とは、一義的に「各自めいめい」の意味で、「津波」に続ければ、各自がそれぞれに逃げて自分の命を守れとなります。歴史の教訓に培われた、命を大切にして共倒れを防ぐための知恵なのです。

太平洋セメント大船渡工場では、所定の避難が困難な事態に備え、決して逃げ込んではならない場所を徹底しました。奏功して、緊急退避した人も含めて全員の無事を得たのです。

釜石の小中学校の児童・生徒約3千人は、8年間重ねた訓練の通り即座に避難しました。教職員は、点呼も取らせず整列もさせず、ひたすら高台に向けて走らせたといいます。間一髪の生存率99.8%は、「釜石の奇跡」と呼ばれています。

しかし、釜石で宿泊した旅館の女将の話から、更に深い意味を知りました。背に津波が迫るなか、歩けない家族を一緒に運ぶ一家が間に合わずに呑まれ、駆け抜けた人々は「早く逃げろ」と声を掛けていったそうです。実は「てんでんこ」には、親子も構わず率先して逃げることで、ためらう人の避難を促す意図があります。また、自分が助かり他人を助けられなくても、それを非難しない不文律ともいいます。地域社会を復興していくうえで、悔いや恨みが残れば、当事者の苦悩は増し団結の妨げにもなります。それは、地域を次代に繋ぐための教えでもあるのです。

改めて、逃げ遅れる一家に思いをめぐらし、深く考えさせられました。逃げ延びた人も家族に付き添った人も、どちらも最善の決断であったと信じたいと思います。

何としても立ち上がれ

震災の直後、英断をもって立ちあがった人々がいます。

太平洋セメント大船渡工場はその7割が被災しましたが、復興支援を見すえてセメント製造用の高温焼成設備を先行復旧しました。何とそれは、史上初ともいわれる災害廃棄物の焼却炉としての応用で、高圧電力の供給を得て、実に6月には処理を開始しています。
宮古の三陸鉄道が立ち上げた対策本部は、電力不要のディーゼル車両の中でした。望月社長以下、座席に立てかけた小さなホワイトボードと大学ノート、そして災害時優先携帯電話を手に指揮を執ったそうです。一面の瓦礫に道を無くした住民がたくさん、線路を頼って歩いている。社長は、1週間以内の部分運行再開を決断、自衛隊に線路上と駅への道を拓いてもらい、早くも3月16日から順次、可能な限り実現させました。試運転車両は警笛を鳴らしっぱなしに走り、沿線の人々は皆、手を振って応えたそうです。高らかな警笛は、息を吹き返す三陸鉄道を知らせ、勇気と元気を分かち合ったのです。

いずれも、地域復興に欠かせぬことを、直ちに実行しています。そこには、地域に根ざす企業の責任と覚悟、そして素晴らしいリーダーシップがあります。

多様化する被災の受け止め

一口に被災者といっても、失った生活や夢はそれぞれです。避難生活が続く人も、日常に大きな支障を感じない人も、同じ町に暮らしているのです。3年の歳月は、地域住民の被災に対する受け止めに変化をもたらしました。生業による利害なども存在し、住民の復興像はさまざまな姿で描かれています。

先の旅館の女将は、奇跡的に津波から生還し、語り部として、また地域の復興活動にも尽力しています。濁流から裏山に駆け登った女将が目にしたのは、海も空も真っ黒に渦巻く地獄絵図でした。その地域で今、巨大な防潮堤の建設をめぐって意見が割れているそうです。地域防災の基礎インフラに対してすら、意識の乖離が生じているのです。

また、世代の違いも見逃せません。例えば、未来のある若い人は「過去の被災よりも将来のこと」と先の夢を追い、残る人生を役立てたいと誓う人は「復興の社会実験でも良い」と今できることに汗します。それぞれの視点と役割があるのです。大切なことは、一人ひとりの夢や思いを懐深く包容できる地域社会の復興です。現在、多くの市町村で、意識の多様化と共同体としての地域復興への模索とが、同時進行しているように思われます。

復興と持続的な発展

地域社会の復興には、防潮堤や河川を整備し、高台移転や土地のかさ上げを行うだけでなく、住民の生活の糧や社会的な保障が再生され維持できる成り立ちが必須です。

総務省の人口調査によれば、岩手県は全国でも人口減少や少子高齢化の傾向が強く、今回訪れた市町村は、押しなべて県平均以上の減少を示しています。1984年に運行開始した三陸鉄道では、乗車する高校生が半減したそうですが、生活実感でしょう。

住民減は、住民税や消費税など税収減に直結しますが、上下水道などインフラ縮小は難しいことから、社会福祉サービスが維持困難となるといわれ、これが更なる住民流出を招くとされます。持続的な発展性の獲得には、産業の創造や地域外人口の誘致、隣接自治体など広域連携による社会福祉サービス面の確保といった検討が重要と思われます。

このような視点では、自然が美しく豊かな特性を背景に、旅館の女将が携わるスポーツ大会の誘致や地元森林組合との環境関連活動、三陸鉄道の活発な観光誘致や地産品と三鉄ブランドの開発などは注目されます。いわゆる第6次産業の展開と観光交流人口の獲得という、新たな産業の創造です。また、地域を駅で繋ぐ鉄道には、自治体や地域文化の広域連携を促進する力があります。久慈に向かう三陸鉄道の素敵な車両には、観光客が楽しげでした。

むすびに

地域や住民の夢と期待が複雑に綾なすなか、白紙に絵を描くような復興が模索されています。住民一人ひとりの異なった夢を受け止め、発展的に存続できる地域社会を創りあげることは、官民一体でもなお容易ではありません。

三陸の復興は、急激な人口減少と少子高齢化の課題に取り組む日本の先行モデルともいわれます。今回は、民間企業や住民の、力強い挑戦と創意工夫を垣間見た思いです。お会いした誰もの笑顔と熱意、そして不屈の精神に敬意を表し、多くの夢が集い共に生きる社会の実現を、心より祈念いたします。

2015.6掲載

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