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有識者から当会広報誌「明日へ」に寄稿していただいた記事の転載です

冨手淳:三陸鉄道 東日本大震災からの復興(その1)

プロフィール

三陸鉄道株式会社 旅客サービス部長
冨手 淳(とみて あつし)

1983年3月 神奈川大学卒業
1983年7月 三陸鉄道株式会社入社、総務課勤務のあと車掌、運転士、指令主任など
1997年1月 業務部営業課へ
2010年4月 旅客サービス部長(現職)

はじめに

2014年4月6日、三陸鉄道は3年ぶりに全線での運転が再開された。

三陸鉄道は、東日本大震災で大きな被害を受けたが5日後の3月16日には久慈―陸中野田間で運転を再開した。それから順次、運転区間を伸ばして全線運転再開となった。そして、この2014年4月というのは三陸鉄道開業から30周年でもあった。

これもひとえに多くの皆さまのご支援、ご声援があったからこそである。

三陸鉄道の概要

三陸鉄道は1984年4月1日に開業した。国鉄再建法で国鉄盛線(盛[さかり]―吉浜)、宮古線(宮古―田老[たろう])、久慈線(久慈―普代[ふだい])が廃止対象の地方交通線となり工事線の吉浜―釜石、田老―普代の工事が凍結された。そこで、これらの線区の経営を引き継ぎ、工事線の工事を完成させて開業するため県、市町村、民間企業出資による第3セクター方式により三陸鉄道株式会社を1981年に設立し受け皿とした。「全国初の国鉄地方交通線転換による第3セクター鉄道」として開業当時、大きな注目を浴びた。盛―釜石間36.6kmが南リアス線、宮古―久慈間71.0kmが北リアス線である。三陸鉄道は開業時、全国から注目を浴び、たくさんのお客さまが乗車され開業の年は268万9千人という最高の乗車人員を記録している。これが震災前の2010年度は85万3千人まで落ち込んでいた。三陸鉄道は地形の問題もあり長大トンネルが多く、また歴史上、三陸は津波で大きな被害を受けてきたことから津波対策も考慮し建設されたことから海沿いはやむを得ない区間に限られた。

東日本大震災の発生

2011年3月11日14時46分、大きな揺れが東日本を襲った。そして、延々と揺れが続いた。長周期の揺れであり津波が来ることが直感できるようなものであった。宮古駅への避難指示をしているうちに津波警報が発令された。各運行部へ連絡をとり走行中の列車の状況を確認。北リアス線では白井海岸―普代間で116Dが停車、南リアス線では吉浜―唐丹[とうに]間で213Dが鍬台トンネル内に停車し無事であることが確認できた。津波があってもまず問題のない箇所であった。本社では幹部社員を残し避難所へ社員、お客さまを避難させた。ハザードマップ上では宮古は駅前の直前まで津波が来ることが想定されていた。宮古駅2階にある本社の窓から海の方向を見ていると、津波は約1時間で駅前のロータリー手前まで到達した。300mほど先では自動車が折り重なって危険と判断されたため、幹部社員もJRと三陸鉄道を立体交差する近くの陸橋「出会い橋」に避難することとした。大通りの津波が引き始めたので夕方、本社に戻るが停電で真っ暗、暖房もない状態であった。そのときホームに車両があった。ディーゼルカーなので電車と違い軽油があればエンジンがかかる。停電は関係ない。車両に行こうということになった。エンジンをかけると電気がつき暖房も入った。避難所よりも結果的に「快適」であった。この車両を対策本部とし関係個所との連絡をとっていくことになる。北リアス線の116Dは19時過ぎに普代村の消防団に連絡がつき救助できた。南リアス線の213Dは時間の経過から運転士の判断でトンネル外にお客さまを誘導、国道にでて通りかかった車に乗せてもらい大船渡に戻ることができ社員、お客さまとも人的な被害がなかったのが幸いであった。

被害状況

3月13日の朝に津波警報が津波注意報に変わった。社長と宮古から普代方面に向かった。久慈でも運行部が普代へと向かった。とりあえず駅や海岸沿いの区間を見ていくことになった。田老は大きな被害を受けた。駅の観光センターは、建物は残っていたが完全に津波が入り中はガレキが流入していた。線路は築堤上にあったことから大きな被害はなかったが久慈方で津波が乗り越え家屋の屋根やガレキが散乱、バラストも一部流出したがレールは大丈夫であった。島越[しまのこし]は無残な状況だった。駅は壊滅しているとは予想していたが高架橋が倒壊するとは考えてもいなかった。これで早期復旧は困難であることは明白であった。また復旧自体ができるのかという問題もあった。復旧費は明らかに大きな額になる。

陸中野田―野田玉川間で2kmに渡り軌道が津波で完全に流出した。

南リアス線では、南リアス線運行部の車両基地が浸水、運行部も1階部分が浸水した。車両が3両構内にいたが、床下の走行部が浸水し使用不能になった。これらの車両は廃車となる。盛駅構内も浸水したが駅舎には被害はなかった。盛―陸前赤崎も津波で一部軌道が流出した。甫嶺[ほれい]駅周辺でも津波被害があったが築堤が防潮堤の役割を果たし集落の被害は最小限に抑えられることになった。甫嶺―三陸間の泊地区は築堤が津波で崩れ軌道も流出した。吉浜―唐丹間の荒川橋梁は津波で吹き飛ばされた形になっていた。唐丹駅は標高が高かったが津波が到達し構内が浸水、軌道も損壊しガレキが流入した。しかしながら津波被害はこのように部分的だった。南リアス線は、津波はさることながら地震による被害が大きかった。前述したように三陸鉄道はトンネルが多く津波対策をとった路線であることから大きな被害ではあったが、実際は津波の被害が最小限にとどまったともいえるかもしれない。

続く

・三陸鉄道 東日本大震災からの復興(その1)
三陸鉄道 東日本大震災からの復興(最終回)

2015.5掲載

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