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田中 正人 「路地裏の人権」 〜からかいの文化と人権 (その2)

圧倒的多数の「同一・均一」集団

イメージ  人権は、「問題があるから」考え、関心を持つのではありません。それもいいことですが、「問題」なんかなくとも、人権意識がいつも、「くせ」として、「慣れ」として、一人ひとりの身に付いていてこそ、「問題」にも俊敏に対処できるのです。個々人の人権が尊重されるのです。「問題」はなくとも、いつも人々の「存在」「意思表示」とともに人権はついて回っているのです。
 その人権、人間の「存在」と「意思」を尊重する人権意識を根付かせるにはどうすればいいのでしょう?
 「習うより慣れ」です。様々な角度から日本の人権を見てみましょう。

 日本社会は、いわゆる圧倒的多数の「同質・均一」集団を中心にして営まれてきました。「周りと同じ」「みんなと同じ」が優先され、ちょっとでも違った環境、立場にある人や、政治的、社会的になんらかの隔離状態に置かれた人々、つまり、「みんなと同じでない人々」は、「異質」として排除されてきました。
 その「異質排除」の典型が、障害を持つ人々に対してのものでした。もっとも強く「異質」として、大多数の社会からの敬遠、忌避、無視の対象になったのです。
 古くには、障害者を家に閉じ込めて、外に出さない“座敷牢”があったほどです。
「皆の前に『変な人間』をさらしたら、家中、全部が異質扱いされる」
というとんでもない発想から生まれたものです。
イメージ  被差別部落・出身者に対してもそうです。他の背景もいっぱいありますが、大多数の同質社会は「自分たちとは違うんだ」と異質扱いし、排除してきました。封建社会下の何の理由もない、悪しき身分制度であることがわかってからも差別は続きました。
 なぜでしょう? 圧倒的多数の同質集団は、大多数の慣習に浸っていたほうが楽だからです。自分に火の粉が降りかかってこない限り、大多数の社会では、差別も人権も考えなくても、生きていけるから、です。
 この「異質排除」は、人間社会のもっとも身近な文化である言葉にも表れています。
 言葉は文化の代表的なものです。その文化は、古い時代の特権階級社会から生まれたものでしょう。学説的には異論があるかも知れませんが、少なくても、差別的、偏見的な表現について、私はそう思います。

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