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クローズアップ

車いすバスケットボールプレーヤー
京谷 和幸
「出会い」が私にくれたもの(その1)

京谷 和幸

●プロフィール

 京谷 和幸
(きょうや かずゆき)

 1971年8月13日生まれ。北海道室蘭出身。
 小学校2年からサッカーを始め、高校でバルセロナ五輪代表候補となる。
 1990年室蘭大谷高校卒業後、古河電気工業株式会社に入社。
 1991年にジェフ市原とプロ契約。
 1993年Jリーグ開幕半年後に、交通事故により脊髄損傷、車いす生活になる。リハビリの一環として車いすバスケットボールを始めるが、その躍動感・充実感を知ることとなる。
 1994年に千葉ホークスに入り、車いすバスケットボール選手としてスタートを切る。
 2000年シドニーパラリンピック、2004年アテネパラリンピック、2008年北京パラリンピックの日本代表選手となる。北京では、日本選手団の主将も務めた。
 2009年3月には自身の実話が映画化された「パラレル」が公開された。現在は(株)インテリジェンス(人材総合サービス業)提供の障がい者専門人材サービス事業にて、自身の経験や視点を生かし、企業や個人に向けたアドバイスを行う〝障がい者リクルーティングアドバイザー〟として活動している。
 また2011年7月より、これまでのパラリンピアン※としての功績、教育現場での講演活動の実績が評価され、千葉県教育委員会教育委員に就任。

※パラリンピアン…パラリンピック出場経験者

はじめに

京谷 和幸(c)Photo by Abe
(c)Photo by Abe
 東日本大震災によりお亡くなりになられた方々やご遺族のみなさまに、心よりお悔やみ申し上げます。

 また、今なお被災地での厳しい生活を余儀なくされている方々へ、謹んでお見舞い申し上げます。

 私も過去『事故』という大きな挫折を経験しました。現在に至るまでには数々の困難がありましたが、一つ一つ乗り越えていく過程には必ず『出会い』があったのです。被災地の方々にも、今この困難を乗り越えるためにたくさんの『出会い』が訪れることを願いますとともに、私自身もそのお手伝いができれば幸いです。  

1.順風満帆だったサッカー人生

 1971年8月13日、北海道室蘭市で私は生まれました。幼い頃からサッカー少年だった私は、昔から憧れていた北海道のサッカー強豪校・室蘭大谷高校に入学。1年生からレギュラーで背番号「10」を付けてプレーし、2年生の時には日本ユース代表入り、3年生の時にはバルセロナオリンピック代表候補にも選出されました。家がそれほど裕福ではなかったので、高校卒業後は就職して親を楽にしてあげたいという思いもあり、古河電工に入社しました。古河電工サッカー部(後のジェフユナイテッド市原※現ジェフユナイテッド市原・千葉)は、日本サッカーリーグ(JSL)が始まる以前から、日本のサッカー界を引っ張ってきた名門中の名門です。

 その後1993年にJ リーグが発足し、ついにプロサッカー選手という念願の夢を叶えました。

 当時の私は、前述のとおり順風満帆なサッカー人生を送り、常にトップレベルでプレーをして来たため、「自分が一番、自分より上手いやつはいない」と自己中心的な思考の持ち主で、プレーや日常生活にもわがままな態度が表れていました。

 当時はそんな性格でしたし、更に同じポジションには元西ドイツ代表のリトバルスキーがいたため、なかなか試合に出ることがありませんでした。プロサッカー選手になったものの、所属チームのトップチームに入れず、試合にも出られず、なおかつ私はその頃婚約者との結婚を控えていました。試合に出られない苛立ち、これからの人生に対する不安。この頃は、多くのものを抱え込み、精神的にも不安定な状況になっていました。

 そんな矢先の1993年11月28日、結婚式の衣装合わせの前夜という日に、交通事故が起こったのでした。  

2.失われたサッカー

京谷 和幸(c)Photo by Abe
(c)Photo by Abe

 気がついたときには手術も終えて、集中治療室のベッドに寝ていました。この時はまだ自分が車いすの生活になるということを知らされておらず、早く退院・リハビリをしてチームに戻らなければと考えていました。

 そんなある日、面会に来た婚約者が、突然枕元で「入籍しよう」と切り出してきたのです。あまりにも突然で、なぜそんなに急ぐ必要があるのかわかりませんでした。退院・リハビリをし、復帰してからでも良いと思っていましたから、その考えを伝えると、今まで見せたことのない必死の形相で「今じゃなきゃダメなの!」と言いました。私の不注意でこんなことになってしまい責任を感じていましたし、遅かれ早かれ入籍するのだから、婚約者の望むようにしようと決意し、ベッドに横たわったまま婚姻届にサインをしました。

 その時、私は自分の身に何かあるとは全く思いもしませんでした。自分の足が動かなくなるということ、サッカーができなくなるということを全く思いもしないまま、私は事故から11日目の12月9日に婚約者と入籍をしたのでした。

 その後しばらく経っても私の足は動くことがなく、日に日に私の心境は不安と焦りでいっぱいになっていきました。

 ある日のこと、面会時間が終わって妻が病室を出て行った後、ベッドの脇にあるサイドボードの上に、妻が日記を置き忘れていることに気が付きました。お見舞いの品などをいただいた方に、退院したときにお返しするために付けていると言っていたのを思い出し、なんとなくその日記を見てしまったのです。

 日記を開いた瞬間、一番最初に私の目に飛び込んできたのは、「脊髄神経がダメになっている」という文字でした。日記をめくって行くと、「2週間経っても感覚が戻らないと車いすの生活になると先生に言われた・・・。」など、絶望的なことばかり書いてありました。私は、この日記で初めて自分の足の事実を知ったのです。しかし、この事実を黙っていた妻に対して怒りを感じることはありませんでした。私はみぞおちから下の感覚が全く無く、排便・排尿のコントロールができませんでしたので、オムツを穿いて生活していたのです。妻は毎日面会に来ては、嫌な顔一つせず取り替えてくれました。そんな妻に怒りをぶつけることはできず、「このことは、自分の胸の中だけにしまっておこう」そう思い、日記を元のサイドボードの上に戻したのでした。また、この時はまだ医師からの宣告も受けていませんでしたので、僅かでも可能性があるのなら、絶対にあきらめないと思っていました。しかし、遂に運命の「宣告の日」を迎えてしまうのです。担当医から「この症例で治ったケースはありません。これからは車いすの生活になります」そう告げられました。私は「はい、わかりました」とだけ答えました。人に自分の弱さを見られるのを嫌い、いつも意地と見栄を張って生きてきましたので、宣告によってうろたえた姿を他人に見られたくなかったのです。

 その宣告の後、面会にやってきた妻に対し、私は担当医から宣告を受けたことを伝えました。もうサッカーができない、これから車いすの生活になる、という不安を初めて妻にぶつけました。すると妻は、「1人じゃできないことも、2人なら乗り越えられる。これからは1人じゃないんだし、2人でがんばって行こうよ」と涙を流しながら私を励ましてくれました。しかし、その時の私はこの言葉を受け入れられる精神状態ではなく、「お前は泣けていいよな、俺なんてあまりのショックで涙も出ないよ」と更に八つ当たりをしてしまったのです。

 その夜、私はサッカーができなくなるという恐怖に襲われました。深夜の病室で、枕に顔を押し当てて、声を殺して泣き続けました。気がつけば朝を迎えており、宣告後から何も口にしていなかったので、一瞬気が抜けたのかお腹が鳴ったのです。何か食べ物と飲み物が欲しくなって、周りを見渡しましたが何もありません。そこで愕然としました。病室から出れば自動販売機があるのに、今の私にはそこまで行く「足」が無かったのです。事故を起こすまでは、自分で何でもできるし、プロサッカー選手になれたのは、自分の才能だと思っていました。そんな私でしたから、毎回ご飯を運んでくれる看護師さんや、頼めば何でも買って来てくれる妻に対して、それが当たり前のことだと感じていました。私は、この時初めて自分の愚かさと、人は1人では生きて行けないということに気づいたのです。頭をハンマーで殴られたような感覚でした。ただ、心が沈みかけたその時、あることに私は気づきました。私には入籍した妻がいるということです。私が車いすの生活になる、ということを知っていながら入籍をしてくれた妻の強い覚悟に、私は初めて気づきました。それからの私は、その妻の思いに応えなければいけない、妻を幸せにしなければいけない、という思いが心の底から湧き上がってきたのでした。その後の私は、1度サッカーができなくなることは置いておき、少しでも早く退院して社会復帰を果たすための行動を起こしていくことになるのです。

 リハビリ専門の病院へ移り、上半身の筋力アップをするために過酷なメニューをこなし続けました。

 そんなリハビリ生活中、妻から車いすバスケットボールの存在を教えてもらいました。私が生活している千葉県内に、「千葉ホークス」という全国でも屈指の強豪チームがありました。初めて見学へ行ったときは、あまりの激しさに尻込みし、そのスポーツから逃げようとも考えました。しかし、その後のいろいろな出会いによって、私は車いすバスケットボールで世界をめざすようになるのです。  

次回に続く

  • 新たな夢
  • 夢の実現
  • 人生の柱となっている「出会い」

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