企業と人権(その2)

岡田 ユキ
●プロフィール
1992年 NHKオーディション合格
1998年 CDアルバム「FAMILY」リリース
2000年 著書「みにくいあひるの子供たち」出版
2002年 CDアルバム「光の癒し」リリース
2004年 CDシングル「遙かなる時を越えて」リリース
冊子「虐待死をまぬがれて」執筆
2006年 「みにくいあひるの子供たち」改訂復刻版出版

【経歴】
  • 特定非営利団体日本教育カウンセラー協会認定NO1043026「サークルダルメシアン」
  • 幼少期からクラシックに親しみ、歌うことを自己主張の手立てとして音楽の世界に入る
  • 99年独自のジャンル「ポピュラーミュージックセラピー」を立ち上げ、“楽しく心を癒しましょう”とさまざまな活動を展開
  • プロのジャズシンガーの他、音楽療法家・カウンセラーとしても現在活躍中

  • ポートレイト


    マヌカン業へそして敗北

     その後、実家を出て一人で新しい人生を始める事を決意しました。
     当時洋服に興味があった私は、行きつけのブティックの店員からマヌカン業(洋服販売)を紹介してもらいました。その会社は寮も完備されていて私にとってはうってつけの職場となりました。この仕事により私は意外な事実を知ることができました。
     長年家族に自分の人格を否定され、同時に苛酷な要求をされる中で、愛されたい一心で努力してきましたが、社会に出て働いたことにより、本当の自分の能力を知る事ができたのです。
     つまり、実家での苛酷な日々のおかげで、社会の仕事をいとも簡単にこなす事ができ、即結果が出せたのでした。
     マヌカン業半年にて16歳の私が多くの先輩を差し置き、店長として一軒の店舗をまかされることになりました。
     その後私は自分を信じて8年後に自らオーナーとして、ブティックを開業することが出来ました。
     しかし、わずか1年で倒産し、23歳で400万円という多額の借金を持つ事になりました。
     私に高校中退のレッテルを貼る両親は、社会に出てからもたびたび私に兄達の学歴自慢をする電話をしてきては私の自信を潰しにかかりました。
     だからこそ私自身も必死でもがき、必要以上に高い目標を掲げては、「親の呪縛」と戦っていたのです。
     その結果が女性実業家への道でしたが、現実はそんなに甘くなかったのです。同時にお金が人の心をも変える事を学びました。
     勿論、多額の借金があっても助けてくれる親ではなく、より突き落とそうとする親には頼れるはずもありませんでした。そんな中、「貯金はないけれど一緒に借金を返そう」と言ってくれたある男性の優しさに惹かれ、出来ちゃった結婚をしました。
     しかし息子の出産後、温かな家庭を夢見た現実はDV家庭へと変化していき、そこには心の傷が作り出す病として、「夫婦間の負の連鎖」が起こってしまったのです。



    虐待の連鎖

      つまり幼少期、両親の過度の暴力や虐待を目撃して育った子どもは、「虐待の連鎖」を引き起こし、両親同様に無意識のうちに夫や妻、恋人に虐待行為をしてしまう傾向があるのです。
     また被虐体験者も同様にパートナーを虐待してしまう傾向があります。その結果、男性は比較的自分の受けた暴力や虐待を自分以外の外に向けて加害者となる傾向がありますが、反対に女性の場合は自分の中に向けて被害者になり、うつ病や心身症になることが多々あります。
     私たち夫婦も例外ではなく、やはりその法則にピタリと当てはまってしまったのです。ですが、そんな中でも私を支えてくれたのは息子の存在でした。
     母としての母性本能が目覚め、この窮地をどうにか打破しなければいけないと考えるようになりました。
     そんな思いのなか友人の勧めもあり、幼い子どもを抱えながら借金を返すための手段として人材派遣業の会社を興しました。
     その仕事は意外にも大成功を収めて多額の借金を完済し、おまけに一軒家まで手に入れる事が出来たのです。
     しかし、夫は職人の狭い世界しか見ることが出来ず、私は人材派遣業という職業柄広い世界を見ていましたので、夫婦間の価値観が少しずつずれ始めていきました。
     夫は私より9歳年上。長年料理界で仕事をしており、本来ならば出会うことがなかった二人でしたが「音楽好き」という共通の趣味が結婚へと後押ししたのでした。
     その頃の私と音楽との関係は趣味の世界だけでしたが、そもそも私が音楽と出会ったきっかけは幼少期に遡ります。



    潰された夢、そして家庭内暴力へ

    A.P.F.S

     私は京都の西陣で生まれ、両親は西陣織の職人でした。当時ご近所には大物演歌歌手のMさんの実家がありました。
     私が生まれた年Mさんはデビュー前で、毎日一生懸命歌の勉強をしながら私のベビーシッターをしてくれたそうです。
     私の実家は父親がクラシック好きだったために、ことあるごとにクラシック音楽が家の中で流れていました。
     しかし、クラシック音楽が嫌いな私には、Mさんが時たま東京から持ち帰ってくれる流行歌のレコードを聞くことが何よりの楽しみでした。
     当時は今と違いテレビ放送には音楽番組も数多くあり、それらに影響されて「私も歌手になりたい」と強く思うようになりました。
     ある時両親に内緒でオーディション番組に応募しましたが、結果はいつも落選でした。今振り返ると私は、家族の虐待による後遺症で子どもらしい綺麗な声を失っていたためにハスキーボイスとなり、声質もマイナスだったように思います。その後も歌手への憧れは大きく膨らんでゆきました。
     夢を実現する第一歩として「Mさんに、私の歌を聞いて欲しい」と書いた手紙を添えて、初めて作ったデモテープをMさんの実家のポストに投函しました。数日経ってMさんのお父さんが私の家に尋ねて来られ、歌手になる気持ちがあるのならば、Mさんが東京で面倒を見てくれるということでした。
     私は天にも昇る気持ちでした。その話を私の傍で聞いていた両親は驚きながら、「娘の冗談ですさかい、真に受けんといてえな」と父親の一言でいとも簡単に私の夢は潰されたのです。
     現実の苦しさを乗り越えるには、趣味の世界だけでも「歌うこと」がなければ私は生きていけなかったのです。そこには無意識のうちに「音楽セラピー」を自分に施して、心の傷を癒していたのでしょう。
     私にとってこのように大切な音楽でしたが、そのことが夫の趣味と合致して結婚し、夫の理解のもと、真剣に音楽の勉強を始める事ができました。
     はじめは私の歌の上達を自分のことのように喜んでいた夫も、私が有名な音楽家にスカウトされジャズシンガーとしてデビューしてからは日々お酒の量も増えるようになりました。
     私の父親と同じだったのか、もともとアルコール依存症だった夫はDVもエスカレートして、とうとう息子にまで手を上げるようになっていきました。
     ジャズシンガーの仕事が忙しくなった私は、夫に人材派遣業をまかせることにしました。
     しかし従業員が夫には付いていかず顧客も離れ、その結果廃業することになってしまいました。またしても経済的にも追い込まれ、一時的に温かくなりかけた家庭も再びDV家庭化してしまいました。



    次回に続く

    「虐待の連鎖」そして「感動の連鎖」へ
    〜今食い止めたい虐待死〜(その3)
  • 里離と悟り
  • そしてカウンセラーへ
  • 虐待が無くならない理由は
  • 責任感とは
  • そして喜びの連鎖へ

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