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今日、私たち一人ひとりがかけがえのない人間として尊重され人権が守られることが、ごく当然の権利として認識されるようになっていますが、ここに至るまでには多くの人たちの弛まぬ努力や献身的活動がありました。このコーナーでは国内の人権に先駆的に尽くした人物にスポットを当てその足跡を辿ってみます。
第一回目は、明治から昭和にかけて女性の社会的地位向上や知的障害児の社会福祉など、社会的弱者とされてきた人びとへの教育と人間としての尊厳確保に生涯を捧げた石井筆子を紹介します。

▲ 静修女学校校長時代の筆子
◆ 近代女性の先端へ
幕末、筆子は倒幕を推進した肥前大村藩士・渡辺清、母ゲンの長女として生まれました。維新という社会の変革を肌身に感じて育った筆子は外国に関心を持つようになります。
11歳になった筆子は上級官吏となった父のもとへ上京、翌年、日本最初の官立女学校(東京女学校)に入学、その後、東京女子師範の英語科に進みます。また語学力の更なる向上を求めてウィリアム・ホイットニーの英語塾にも通い、その娘クララとの交友を通じて自立した女性の生き方を教えられます。18歳には前アメリカ大統領グラントに拝謁したのをはじめ、法学者ボアソナード、宣教師ブランシェーや教育者グリフィスなど一流の来日外国人からは欧米の新しい文化や考え方を学び、19歳の時に皇后の命で約2年間のフランス留学をします。
当時の女性の多くが教育を受けられない中、このように筆子は日本女性としては先端の教育を受け、人権や社会福祉にたいする思想を固めてゆきます。
◆ 女子教育への情熱と名声
フランス留学を終えた筆子は、女性の社会進出を助けるためには教育が必要であることを確信します。1885(明治18)年、志を同じくする津田梅子とともに華族女学校の教師となり、次いで女子教育振興組織の「大日本婦人教育会」を創設して勉強会の開催や機関誌づくりを推進。さらに、貧困家庭の女子の自立を図るための職業教育を無料でおこなう大日本婦人教育会付属女紅女学校を開校します。このことは、華族女学校教師の看板を張りながら、弱者へのまなざしが彼女の基本にあったことがうかがえます。一面、鹿鳴館の舞踏会へ参加していた筆子は、その洗練された容姿や立ち振る舞いから。鹿鳴館の華≠ニ言われています。
◆ 母としての痛み
時を戻しますが、筆子はフランス留学の前に親が決めた結婚(仮祝言)を同郷の高級官吏・小鹿島果としています。やがて三人の子どもを授かりますが、いずれも女児で重い病気を背負って生まれます。次女は虚弱で出産後ほどなく死亡、三女は6歳で他界、残った長女の幸子には知的障害がありました。
古い家制度があり、障害者への理解に乏しい時代、母子に向ける社会のあからさまな偏見に筆子は失意の底に沈みます。女性として生まれただけで、また障害があるだけで、人をいとも簡単に差別し、そのことに何の疑問を抱いていない世の不条理に絶望を感じたことでしょう。その上、もともと病弱であった夫の果が35歳で亡くなります。
◆ 人生の転機
旧姓に戻った筆子は、家事をこなしながらも日本聖公会の静修女学校を主宰して校長に就任、華族女学校では幼稚園主事や九条節子(後の貞明皇后)の教師をしたり教育者として充実した日々を送っています。
1898年、米国で開催された婦人倶楽部万国大会に盟友の津田梅子とともに日本代表として出席し、見事なスピーチをおこなっています。この後、梅子とは別行動で身体障害児の学校や施設を見学してひとり帰国します。これを契機に筆子は華やかな表舞台から身を引きます。
娘の将来を考えたとき、国内では知的障害児に関する公的制度はおろか教育機関や施設の一つもなく、人間としての扱いさえされていない現実がありました。進めてきた女子教育は梅子らに任せ、自分は知的障害児のために尽力しようと決めたと考えられます。その転機となったのが石井亮一との出会いです。亮一は日本での知的障害児教育の先駆者として施設「滝乃川学園」を開いた人で、筆子はそこへ二人の娘を預けています。やがて、亮一の高潔な人格に感銘を受けた筆子は、周囲の強い反対を押し切って亮一と再婚します。

▲ 滝乃川学園本館
◆ 滝乃川学園への献身
学園での夫婦の生活は質素です。居間は園児の宿舎の一部をあて、床に畳を数枚敷き詰める程度で暮らしています。筆子は保母養成部を担当し、英語・歴史などの一般教養、家事全般、社会福祉の精神など、生徒の孤女(児)たちが自立した女性となるための豊かな教育を行なっています。また保母たちと一緒に働き、直接園児の世話をすることが一番好きでした。
しかし国の福祉施策の貧困により学園は慢性的な財政難を抱えていたため、筆子は学園への寄付金集めや経費の捻出に奔走することに多くの労力を費やしています。1920年、窮乏に追い討ちをかけるように園児の火遊びから出火、園児6名が焼死したことは最後まで筆子の痛恨事となります。しかも、火中、園児を捜し求めて階段から落ち、片足が不自由となります。
それでも夫婦は園の子ども達のためにと手を尽くし、美しい自然があり広々とした国立市谷保の土地を購入して、学園を巣鴨から移転します。
1932年、過労による脳溢血で倒れた筆子は半身不随となり車いすの生活となります。それでも夫・亮一の死後六年間、戦争による福祉への無理解、更なる財政悪化、学園関係者の戦死などの多難な時代を園長として、子どものためを思う気持ちを無くすことなく学園運営に尽力し、1944年、学園の一室で数人の保母に看取られながら人生を閉じました。
時代に屈することなく、自分の理想を貫いた82歳の生涯でした。
■滝乃川学園について
1891年に石井亮一によって設立された聖三一孤女学院を前身とした日本最初の知的障害者の福祉施設。現在は社会福祉法人として様々な福祉事業をおこなっています。
■滝乃川学園の本館について
現存する知的障害者関係の建造物として世界的に珍しく、国の登録有形文化財。知的障害児のための校舎であることから、階段を低く、ゴム張りにするなどの配慮が随所に見られる造りになっています。
■天使のピアノについて
筆子が愛用した日本最古級のアップライトピアノです。ピアノの正面中央に天使像がはめ込まれていることから「天使のピアノ」と呼ばれ、現在も学園での礼拝やコンサートなどで演奏されています。
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▲ 天使のピアノ
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| 西暦 |
和暦 |
年齢 |
事項 |
| 1861 |
文久1 |
0歳 |
渡辺清、母ゲンの長女として長崎県大村に出生 |
| 1872 |
明治5 |
11 |
政府官吏となった父清の元へ上京 |
| 1873 |
6 |
12 |
官立の東京女学校(通称竹橋女学校)入学 |
| 1877 |
10 |
16 |
W・C・ホイットニー家の英語塾入門、娘クララと交友 |
| 1880 |
13 |
19 |
立教女学校長ブランシェー師の塾へ通う
フランス留学のため横浜を出港 |
| 1884 |
17 |
23 |
小鹿島果と結婚 |
| 1885 |
18 |
24 |
華族女学校のフランス語嘱託教師 |
| 1886 |
19 |
25 |
長女幸子誕生。幸子とともに受洗 |
| 1888 |
21 |
27 |
大日本婦人教育会の発足式で演説。理事就任 |
| 1890 |
23 |
29 |
次女恵子死去 |
| 1891 |
24 |
30 |
三女康子誕生 |
| 1892 |
25 |
31 |
夫小鹿島果死去 |
| 1893 |
26 |
32 |
静修女学校を主宰、校長に |
| 1894 |
27 |
33 |
華族女学校に幼稚園設置、主事に |
| 1895 |
28 |
34 |
聖三一孤女学院の特別資金募集の発起人に |
| 1898 |
31 |
37 |
三女康子死去
米国での婦人倶楽部万国大会に参加 |
| 1899 |
32 |
38 |
華族女学校退職 |
| 1902 |
35 |
41 |
静修女学校を女子英学塾に譲渡し、閉校 |
| 1903 |
36 |
42 |
滝乃川学園長の石井亮一と結婚 |
| 1906 |
39 |
45 |
学園を西巣鴨村庚申塚に移転 |
| 1916 |
大正5 |
55 |
長女幸子死去 |
| 1920 |
9 |
59 |
学園が大火、園児6人焼死、筆子も足を負傷 |
| 1921 |
10 |
60 |
学園後援バザーを開催 |
| 1928 |
昭和3 |
67 |
学園を谷保村に移転 |
| 1932 |
7 |
71 |
脳溢血で倒れ半身不随に |
| 1937 |
12 |
76 |
夫亮一死去。筆子が第2代学園長に就任 |
| 1940 |
15 |
79 |
学園創立50周年事業を実施 |
| 1942 |
17 |
81 |
訪米記録『過にし日の旅行日記』出版 |
| 1944 |
19 |
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学園で保母たちに看取られながら永眠 |
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