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あゆみ

身分差別への闘い・渋染一揆


差別に反対して立ち上がった渋染一揆
 江戸時代後半になると、財政難(なん)に苦しむ藩がふえました。岡山(おかやま)藩も財政が苦しくなり、藩内にきびしい倹約(けんやく)を命じました。そのとき、農民や町人からも差別された人々に対しては、服装(ふくそう)は渋染(しぶぞめ)(柿色(かきいろ))のような、もようのない木綿着(もめんぎ)にせよ、雨の日はげたをはいてもよいが、他村に行くときははだしにせよ、などと命じました。
 服装などにまで加えられた制約に対して、これらの人々は、団結して立ち上がり、藩の命令を実行できなくさせました。これを、渋染一揆といいます。

↑幕府がたおれた理由
 農民や町人からも差別された人々のなかにも、みずから差別からの解放を求めて、一揆や打ちこわしに加わる者があらわれました。
小学校教科書『社会』2000年度版(大阪書籍)

渋染(しぶぞめ)一揆
岡山(おかやま)藩では、財政が苦しくなったので、人々に節約を命令したんだ。そのとき、村人や町人とは別に身分上きびしく差別されてきた人たちには、渋でそめた茶色の木綿(もめん)以外の着物はいけないとか、雨のときでも、かさをさしたり、げたをはいたりしてはいけないなど、差別を強める命令を出した。同じように年貢をおさめているのに、あまりにもひどい差別だと、かれらは立ち上がったんだ。これを渋染一揆という。53か村というたくさんの村から、代表として千数百人もの人たちが、藩の役所におしかけ、牢(ろう)に入れられた人も出たが、とうとう、このひどい命令を行わせなかったんだ。
小学校教科書『社会』2000年度版(東京書籍)

世直しを求める人々
幕末の民衆は、どのような要求をして、それを実現するためにどのように運動を進めていったのか調べてみよう。

■どのような要求をしたのだろうか

●渋染一揆
黒船(くろふね)来航のため、江戸警備の費用がかさんで財政が苦しくなった岡山藩(はん)は、29か条の倹約令(けんやくれい)を出しました。とりわけ、「えた」とされた人々に対する命令は、衣類を渋染(しぶぞめ)か藍(あい)染に限るなど、差別を強めるものでした。これらの人々は、農業も行い、年貢(ねんぐ)も納めているのに、このような差別はがまんできないと、領内53か村が嘆願書(たんがんしょ)を出し、そのうち約半分の村から千数百人がたち上がったので、藩は倹約令を実施(じっし)できませんでした。
岡山藩の倹約令(部分要約)
一、えたの衣類は、無紋(むもん)・渋染・藍染に限る。しかし、当分の間は、今あるそまつな木綿着(もめんぎ)なら許す。ただし、紋つきの着用は禁じる。
一、雨天のとき、村内の知り合いの家に行く場合、泥(どろ)足では相手も迷惑(めいわく)だろうからくりの木のげたをはいてもよい。しかし、顔見知りの百姓(ひゃくしょう)に出会ったらげたをぬいでおじぎをせよ。他村など遠方へ行く場合のげたばきは許さない。
   
■どのように団結したのだろうか

●車連判
一揆とは「揆(思い)を一つにする」という意味の言葉です。それが具体的にあらわれたものに車連判(くるまれんぱん)があります。これは、一揆に対するきびしい処分をのがれるため、リーダーをかくしたものとも見られていますが、一揆の参加者の間に、身分・立場をこえた平等・自立・連帯という考え方が生まれていたことを示すものともいえます。

信達(しんだつ)一揆わらだ廻状(かいじょう)(福島県)
中学校教科書『歴史』2000年度版(東京書籍)

 江戸時代の中頃から強まった風俗規制への抵抗運動は各地でみられましたが、その中でも岡山藩の「渋染一揆」は部落民衆の闘いとして知られています。その闘いのエネルギーは後世に受け継がれ、1923(大正12)年に部落解放運動を進める全国水平社が岡山県でも結成された時、その県本部は一揆の中心となった神下村(こうのしたむら)に置かれました。
 この渋染一揆は、最近どの教科書でも取り上げています。財政が苦しくなった岡山藩が住民統制のために差別を強め、その分裂支配に対し団結して闘った被差別身分の人々とその倹約令を実施させなかった事例について記述しています。また、一揆に加わった人数や村の数を詳しく記述している教科書もあります。
 このほか、中学校教科書(東京書籍)では、「南部藩の三閉伊一揆」や「車連判」など幕末の民衆運動に関する記述もみられます。


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