私たちは企業の立場から人権の輪をひろげるため、人権に関するさまざまな情報を発信しています。

見聞

「モンテンルパの夜は更けて」〜BC級戦犯の命を救った人びと〜(最終回)

◆ モンテンルパを歌った歌手 渡辺 はま子

▲渡辺 はま子(1930年代) 渡辺はま子は、1910年(明治43年)に横浜市で生まれました。1933年(昭和8年)、音楽学校を卒業すると、ビクターの専属歌手になります。この頃国内的には大衆文化が花開き、はま子は、押しも押されぬ流行歌手になっていきました。

 その後1937年(昭和12年)、日中戦争がはじまると陸軍省報道部の依頼で従軍慰問に明け暮れますが、1945年(昭和20年)、終戦を迎え、天津で捕虜となります。

 帰国後、相模原の旧陸軍病院、巣鴨拘置所などで再び戦犯者への慰問をはじめます。そこでデュランと出会い、後にモンテンルパ僧正と呼ばれる加賀尾に巡り合うこととなるのでした。

 そのころ加賀尾は、モンテンルパの局面を打開するためには「歌によって日本人の心に訴えるしかない」と考えるようになり、死刑囚に対し、自分自身の手による詞曲作りを依頼します。


◆ 対話を通して助命に 尽力した画家 加納 辰夫

 加納は、島根県出身の日本人画家です。1949年(昭和24年)から4年余りにわたり200通を超える嘆願書や書簡をキリノ大統領や関係者に送り続けました。加納の嘆願は、「目には目を」という復讐から平和は生まれないとの考えに基づいたものです。また、赦免を受けることにより、日本がモラルを向上させ、世界平和に貢献していく契機になればと考えたのです。

◆ 特赦を実行した フィリピン キリノ大統領

 日本国内が大きく動く1952年(昭和27年)の前年に悲しいことが起こりました。キリノ大統領の署名により、14人が死刑執行されたのでした。その2か月後、加賀尾の書いたローマ法王への「死刑囚の嘆願書」が法王の心を動かし、敬虔なクリスチャンであるキリノ大統領に伝わります。大統領は、「日本人の処刑については考慮を払います」という手紙を法王に送られたそうです。

 それから約2年経ち、1953年(昭和28年)加賀尾は、キリノ大統領と会見します。持参したオルゴール入りのアルバムを開けると音楽が流れました。3回繰り返し聞いた大統領が「非常に哀調に富んだ音楽ですが、なんという音楽ですか」と尋ねられました。加賀尾は「これは『モンテンルパの夜は更けて』という音楽で死刑囚が作詞、作曲したものです。家族も待っております。本人たちも帰りたがっています。どうかよろしくお願いします」と答えました。この時、キリノ大統領の心の中で雪が溶けるように大きな変化が起こりました。思いがけない大統領の告白。「日本軍によって身柄を拘束され毎日拷問を受けた日々。しかもその間に、最愛の妻と娘が殺されてしまっていた」。深い怨みは、フィリピン国民全体のものであると同時に大統領個人のものであったことを加賀尾は知りました。

 その後、大統領は決断し7月の独立記念日を機会に特赦式が行われ、全員が帰国の途に就きました。うち56人は終身刑に減刑され、いったん巣鴨に拘置されますが、半年後大統領は、巣鴨に収容中のフィリピン関係の戦犯全員の釈放を公式発表し、ここにすべての人間が晴れて自由の身になったのです。

 賠償協定が締結され講和条約の批准を得て、両国の国交正常化が実現されるのは、戦犯釈放から3年を経た1956年(昭和31年)のことでした。いわば正式な国交なき中で、戦犯全員に対する大統領恩赦令が発せられたのでした。

 平和な日本で生活している私たち、忙しさにかまけていつのまにか戦争を忘却の彼方に追いやってはいないでしょうか・・・。

参考文献
 「モンテンルパ 比島幽囚の記録」(辻豊著/朝日新聞社)、「モンテンルパの夜明け」(新井恵美子著/光人社NF文庫)、「歴史と地理」(林博史著/山川出版社)、NHKアーカイブス あの人に会いたい、「フィリピンBC級戦犯裁判」(永井均著/講談社)


2014.4掲載

「モンテンルパの夜は更けて」〜BC級戦犯の命を救った人びと〜
(最終回)

戻るホームに戻る