私たちは企業の立場から人権の輪をひろげるため、人権に関するさまざまな情報を発信しています。

見聞

人権に尽くした人たち 荻野 吟子 〜 日本の女医第1号(最終回)

荻野吟子肖像
▲荻野吟子肖像

◆ 女医の誕生

 1879(明治12)年、吟子は東京女子師範学校を卒業し、医学の大学に入るべく活動しました。いずれの医学校も女人禁制として、吟子の望みはなかなか受け入れられませんでしたが、支援者の応援も受けて、ようやく東京の下谷にある私立の医学校「好寿院」に入学しました。

 医学校には入校できましたが、医師になるために乗り越えなければならない、1番大きい問題が残っていました。それは、女性ということだけで、医師になるために必要な開業試験を受験することができない問題です。1882(明治15)年、吟子は好寿院を卒業すると、埼玉県や内務省あてに、国が女医開業試験入試手続を認めるよう請願書を提出しました。しかし、女医は前例が無いという理由で、願書はいずれも却下されました。

 吟子は支援者の助言も受け、日本にも女医がいた前例を探します。かつての師、井上頼圀に相談したところ、頼圀は令義解という平安時代の法令の解説書に、昔女性が医学を修得して御用を勤めたという記録があることを吟子に教えました。吟子はそれを携え、内務省に懇願しました。こうした吟子の努力が実り、1884(明治17)年、医術開業試験規則が改正され、女性の受験が可能となりました。同年9月の前期試験には吟子を含む4人の女性が申し込み、吟子だけ合格しました。吟子は翌年3月の後期試験にも合格し、ここに公許女医登録第1号となりました。

 1885(明治18)年5月、吟子は東京の本郷に婦人科の「荻野医院」を開業しました。わが国初めての女医ということもあり、吟子は新聞や雑誌にも取り上げられ、患者も増える一方という状況でした。

 吟子は、開業医として成功を収めますが、それ以上に、女医の先覚者として、女医の制度創設に果たした功績は非常に大きかったといえます。



◆ 再婚と後半生

荻野吟子記念館
▲荻野吟子記念館

 開業の翌年、吟子はキリスト教徒となり、キリスト教婦人矯風会の創立にも参加します。吟子は同会で風俗部長となり、社会奉仕や婦人参政権運動、廃娼運動への取り組みを始めました。また、医療活動を行う一方、大日本衛生会幹事や明治女学院の教師に就任して活動しました。

 1890(明治23)年、吟子は同志社(現・同志社大学)の学生だった志方之善という14歳下の青年と知り合い、周囲の反対を押し切って再婚しました。結婚した翌年、夫はキリスト教の理想郷を建設する夢を抱き、北海道に渡りました。吟子は東京で医療活動などを続けながらその収入で夫を支えていましたが、1894(明治27)年に荻野医院を閉め、その他の役も辞して、以後は北海道の夫の元で生活しました。この頃、夫の姉夫婦が乳児のトミを残して死去したため、吟子はトミを養女にしました。

 1897(明治30)年、吟子は瀬棚村(現久遠郡せたな町)に医院を開業するとともに、同地に淑徳婦人会を結成し、会長に就任しました。

 ところが、1905(明治38)年、夫が病死します。吟子はその後もしばらく北海道に留まりましたが、3年後に帰京し、本所で医院を開業しました。そして1913(大正2)年、吟子は脳溢血で倒れ、トミ等に看取られながら享年63歳の生涯を終えました。  


◆ 星に

荻野吟子とバラ(道の駅めぬまの銅像)
▲荻野吟子とバラ(道の駅めぬまの銅像)

 吟子は生前「人その友の為に、己の命をすつるは、此れより大なる愛はなし」という言葉を大切にして行動し、女医の門戸を開き、また女性の地位向上に貢献しました。

 こうした吟子の功績に対し、1984(昭和59)年、公許女医誕生100年記念式典が開催され、(社)日本女医会は、社会貢献などの功績や僻遠の地での医療に従事した女医に贈る賞として、「荻野吟子賞」を制定しました。また、故郷の埼玉県では吟子を埼玉県3大偉人の1人としてその功績を称えています。

 2008(平成20)年3月20日、吟子は星になりました。その星は、熊谷市の天文同好会の方が発見した小惑星で、火星と木星の間の軌道を回っています。星の名前を付けるのに当たり、熊谷市が市町村合併後の新しい市に相応しい名前を募集したところ、多数の応募の中から「荻野吟子」が選ばれたのです。夜空を見上げると、皆さんも吟子と出会えるかもしれません。


戻るホームに戻る