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見聞

人権に尽くした人たち 荻野 吟子 〜 日本の女医第1号(その1)

荻野吟子肖像
▲荻野吟子肖像

厚生労働省の統計によると、2010年末時点、日本には約29万5千人の医師が登録されており、そのうち女性の医師(以下「女医」といいます。)は約5万6千人と約19%を占めています。しかし、明治の初め、日本に女医はいませんでした。今回は、日本の女医第1号であり、女性の地位向上に努めた、荻野吟子(以下「吟子」といいます。)の生涯について、吟子が公許女医第1号になるまでの出来事を中心にご紹介します。



◆ 誕生と少女の頃

「生誕の地」石碑
▲「生誕の地」石碑

 吟子は、1851(嘉永4)年3月3日、武蔵国幡羅郡俵瀬村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬)に、父・荻野綾三郎、母・嘉与の5女「ぎん」として生まれました。

 吟子の家は、この俵瀬村で代々名主を務める豪農でした。吟子は教育に力を入れていた両親の元で育ち、10歳の頃から江戸の儒者として知られていた寺門静軒について勉強を始めます。その後、寺子屋での勉強を経て、1867(慶応3)年、寺門静軒の弟子である松本萬年に師事し、儒教の勉強を続けました。  


◆ 結婚、そして発病

 1868(慶応4)年、吟子は結婚しました。相手は上之村(現熊谷市上之)の名主の長男です。婚家は、当時、この地方きっての名門でしたから、この婚姻については地域の多くの人から羨望されたようです。

 しかし、吟子の結婚生活は長くは続きませんでした。吟子は、結婚後間もなく夫から淋病をうつされます。

 現在は抗生物質がありますが、当時、この病気は一生治らないとさえ言われていた辛い病気で、吟子は肉体的、精神的な苦痛に悩まされます。吟子は次第に寝込むようになり、療養のため実家に帰ると、そのまま協議離婚となりました。


◆ 治療と医師への志

 1870(明治3)年、吟子は、松本萬年の紹介状を持って、大学東校病院(旧・幕府医学所、現・東京大学医学部)を訪れると、寺門静軒門下で松本萬年の兄弟弟子だった佐藤尚中院長の診察を受け、入院しました。

 当時、日本には女医がいない状況でした。吟子は、病状が悪化する中、若い医学生を含む男医に診察を受けることに、強い恐怖と羞恥を覚えます。このときの気持ちを、吟子は後に次のように記しています。「男医に診を請う朝夕の如何計り物憂き哉(抜粋)」「嗚呼世幾多の婦人病者の或は男医に接しるを厭うの余り遂に不治の難症におちいり、或は天寿を全うし得ず(抜粋)」。

 このように、吟子は自分や同じ苦しみを持つ患者に思いを馳せる中で、この苦しみや羞恥を救うべき女医の必要を痛感し、「此のときに当たり誰か1人奮ってこの大任に当り社会を涙と堕落の淵より救うものぞ(略)」と、女医になる強い意志を抱きました。

 吟子は、病気は治っていないものの、いったん病院を退院して実家に戻りました。


◆ 「ぎん」から「吟子」へ

 この頃、女性が学問をすることは、世間の理解が得られにくい状況にありました。吟子は、女医への志を訴えますが、家族をはじめ親戚や知己から熾烈な反対を受けます。しかし、吟子の決意は変わらず、結婚前から師事している松本萬年から漢学を修めました。

 1873(明治6)年、吟子は上京すると、国学者の井上頼圀に師事し、女性としては唯一の門下生として、男装して頼圀のもとに通いました。翌年、吟子は井上頼圀のもとを離れ、山梨県甲府の私塾、内藤塾に赴任し、約1年間助教として子女の教育に当たりました。

 1875(明治8)年、官立の東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)が開校すると、吟子は同校を受験し、第一期生として入学しました。この頃から、吟子は戸籍上の名前である「ぎん」の他に、「吟子」という名前を使うようになりました。


次回に続く

  • 女医の誕生
  • 再婚と後半生
  • 星に

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