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金子 みすゞ〜 人々の心に寄り添う童謡を創作した「幻の童謡詩人」(最終回)

金子 みすゞ
▲金子 みすゞ

 金子みすゞ(本名は「テル」。以下、ペンネームの「みすゞ」※と記載します。)は、日本で子どものために作られた歌謡・詩(以下「童謡」といいます。)が発展した大正末期に優れた作品を発表した童謡詩人です。「私と小鳥と鈴と」など、みすゞが創作した童謡についてご存知の方は多いでしょう。

 今回は、その作品が今も人々に影響を与えているみすゞの生涯について、ご紹介します。


※「みすゞ」とはイネ科の植物スズタケのことです。「みすゞ」というペンネームは、みすゞが「信濃の国」の枕詞「みすゞ刈る」が好きだったことに由来するといわれています。


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◆ 結婚と創作の終了

 1926(大正15)年、みすゞは上山文英堂の店員と結婚し、同書店の2階で新婚生活を開始しました。しかし、みすゞの結婚生活は、同書店の跡継ぎである弟とみすゞの夫の対立や、夫の女性問題などで、順調とは言えませんでした。夫の女性問題を知った義父は、みすゞを夫と別れさせようとしましたが、妊娠していたみすゞは、離婚せずに夫に従うことを決め、夫婦は上山文英堂から引っ越しました。そして、同年11月、娘のふさえが誕生しました。

 1927(昭和2)年頃、みすゞは夫にうつされた病を発病し、体調を崩していきます。

 1928(昭和3)年、寝たり起きたりの生活となるなか、みすゞは細々と詩作と投稿を行っていましたが、夫から童謡を書くことと一切の文通を禁じられました。この頃のみすゞの気持ちはどのようなものだったのでしょうか。当時、みすゞは女学校の同窓誌に「唯(ただ)子どもが1人それが始めでそれが終わりで御座います。あの頃日輪の高さにまで翔(かけ)つた空想も今は翼を失ひました(抜粋)」と書いています。

 1929(昭和4)年、みすゞは書き溜めた作品を記載した『美しい町』『空のかあさま』『さみしい王女』の3冊の童謡集を清書し、西條八十と弟に託しました。その後、みすゞは童謡の創作をやめ、それに代わるように、娘のおしゃべりを『南京玉』と題した手帳に書き留めていきます。


◆ みすゞの死

 1930(昭和5)年、みすゞは夫との関係と病気に悩み、娘を手元におくことを条件に離婚します。しかし、離婚後、元夫はみすゞに対して娘を渡すよう言ってきました。当時、親権者は父親に限られており、みすゞは元夫の要求を拒否することはできませんでした。

 元夫が娘を連れにくる前日、みすゞは娘を風呂に入れてやり、沢山の童謡を歌って聞かせたといいます。みすゞは、自室に戻る前に娘の寝顔をのぞきこみ「かわいい顔して寝とるね」と言ったそうで、これが、みすゞの最後の言葉だったといわれます。

 翌日、みすゞは遺書を残して26歳の生涯を閉じました。その後、娘は元夫の元ではなく、みすゞの母ミチの養女として育てられました。


◆ 今も人々の心に

 みすゞの死後、みすゞの存在や作品は忘れられていきました。しかし、矢崎節夫さん(現・金子みすゞ記念館館長)の長年にわたる捜索により、みすゞの弟に託された手書きの三冊の童謡集が見つかりました。そこには512編の童謡が残されており、1984(昭和59)年2月、みすゞ の死後半世紀を越えて『金子みすゞ全集』が出版されました。以後、みすゞの遺した童謡の数々は、人々の心に寄り添い、国内外へと広がり続けています。

 最後に、みすゞの作品の1つである「わらい」を紹介します。

わらい

◎写真提供・金子みすゞ著作保存会
◎出展・金子みすゞ童謡全集(JULA出版局)
◎参考文献・「没後80年金子みすゞ」「金子みすゞ こころの宇宙」

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