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見聞

井深 八重〜 ハンセン病罹患者の看護に生涯を捧げた「病者の母」(その2)

◆ 誤診

 入院後3年が経過しましたが、八重にはハンセン病の兆候が現れません。レゼー神父の勧めで、八重は上京し、当時皮膚科の世界的権威であった土肥慶蔵博士の診断を受けます。1922(大正11)年10月5日、1週間にわたる精密検査の結果、八重のハンセン病の疑いは誤診であったことが明らかになりました。
 レゼー神父は非常に喜び、八重に対してハンセン病でないことがわかった以上退院して自分で将来の道を考えるように言いました。また、日本にいるのが嫌であればレゼー神父の母国フランスにいくのはどうかと提案しました。
 八重は、今自分がこの病気ではないという証明書を得たからといって、今更、レゼー神父や気の毒な病者たちに対して踵を返すことはできないとして、「もし許されるならばここに止まって働きたい」と訴えました。レゼー神父は八重の申し出を祝福し、八重は神山復生病院に残ることになりました。

◆ 病者の友として

正面は当時八重が洗濯をする姿
 ▲正面は当時八重が洗濯をする姿  八重が看護婦として就職した頃、ハンセン病の特効薬はまだ開発されておらず、重症のハンセン病者が多い状況でした。八重は、患者一人ひとりの化膿し潰瘍となった患部を洗い、効き目が無い大風子(だいふうし)という樹木の種子からとった大風子油を注射して、包帯の交換をする手当てを連日続けました。当時は、重症患者の場合、1人の患者が全身に2反(約20メートル)の包帯を巻いていたと言われる時代で、八重は、患者のウミなどがこびりついた大量の衣服や包帯の洗濯を含む様々な仕事にあたりました。以後、66年間、八重はひたすら献身的に患者の看護を続けます。
 また、八重は寄付金を集める活動も積極的に行ないます。当時、神山復生病院は、国からの僅かな補助と、国内を含む各国の慈善家の喜捨及び患者自らの自給自足の労働により成り立っていましたが、経営に十分なものではありませんでした。八重は親族から届けられる私財を経営に役立てるべく投じるほか、歴代の神父とともに海外を含む各地に出かけて寄付金集めに奔走しました。

(※2)看護婦…現在の「看護師」は八重の時代には看護婦と呼ばれていました。本稿では当時の呼び方で記述しています。

◎協力・写真提供 財団法人神山復生病院 復生記念館

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