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見聞

井深 八重〜 ハンセン病罹患者の看護に生涯を捧げた「病者の母」(その1)

井深 八重  御殿場市(ごてんばし)神山(こうやま)の閑静な墓苑の一角に、日本初のハンセン病(※1)の療養施設である神山復生病院で亡くなられた患者、医療関係者、聖職者のお墓が並んでいます。その中に、直筆の文字で「一粒の麦」と墓碑銘が刻まれたお墓があります。このお墓に埋葬されているのが、神山復生病院でハンセン病者の看護に生涯を捧げた井深八重(いぶか やえ。以下「八重」といいます。)です。


◆ 誕生から就職まで

 八重は、1897(明治30)年に、父・井深彦三郎と母テイの長女として生まれました。生誕地は台湾と言われています。一家は台湾から東京に引き揚げますが、八重が7歳のときに両親が離婚してしまい、その後八重は伯父で明治学院大学の創立に携わった井深梶之助に引き取られ、東京市芝区の明治学院構内で伯父の家族の一員のように育てられます。
 八重は、1904(明治37)年に、東京市芝区白金今里町の現白金小学校に入学します。小学校卒業後は、1910(明治43)年に京都の同志社女学校普通学部に入学し、後に同校専門学部英文科に進学します。
 1918(大正7)年、八重は同志社女学校を卒業し、長崎県立長崎高等女学校(以下「長崎高女」といいます。)の英語科教諭となります。

◆ 神山復生病院への入院

1907(明治40)年当時の神山復生病院
 ▲1907(明治40)年当時の神山復生病院  八重が長崎高女に赴任して2年目の1919(大正8)年、八重の体の一部に赤い吹き出物のような斑点ができました。その斑点がなかなか消えない症状について、八重は福岡の大学病院の医師から「らい病の疑いあり」と診断を受けます。
 診断は八重が知らないところでくだされます。診断結果は、八重の伯父、伯母たちに告げられ、身内に深刻な衝撃を及ぼしました。1919(大正8)年7月10日、八重は伯父、伯母に、御殿場にある日本初のハンセン病の療養施設である私立の神山復生病院に連れて来られます。この時まで、八重は自分にハンセン病の疑いがあることを知らされていませんでした。入院した日のことを、八重は、後日、手記の中で「ここがらいの病院であること、そして私が何の為にここに連れてこられたかを初めて知ったときの私の衝撃!それは、到底何をもっても、表現することはできません。(抜粋)」と回想しています。
 今までの住みなれた生活環境とあまりにも隔たりのある現状に、八重は、悲痛な驚きと恐怖に怯える毎日を過ごします。このとき八重は、一生の間に流す涙を流し尽くしたといいます。
 衝撃の中で入院した八重ですが、出生や生い立ち、肉親や家族・友人・知己など過去の一切を断ち切るため「井深八重」という名を捨て、新しく「堀清子」という名を名乗ります。
 入院から数ヶ月後、八重は親族が病院の敷地内に建ててくれた一軒家で生活するようになりました。その頃から、八重は病院内の景色や植生に言及するなど、ようやく周囲に目をやる気持ちが生まれてきます。
 その後、八重は神山復生病院創設以来の互助の方針にしたがい、軽症患者の1人として衣服の洗濯、寝具の繕い、あるいは日常の食物の調理などにあたりました。
 八重が入院した当時、神山復生病院の院長は5代目のドルワール・ド・レゼー神父(以下「レゼー神父」といいます。)でした。レゼー神父が、ハンセン病者をわが子と呼び、親のごとく患者と接する差別をしない姿や、患者の待遇改善のためにひたすら奮闘する姿に接するうちに、八重は「何のとり得もない自分ではあっても、何かできることをしてすべての日本人に代わってこれらの大恩にはご恩返しをしなければならない」との一念を抱くようになりました。

(※1)ハンセン病…ハンセン病は、極めて感染力の弱い「らい菌」によって引き起こされる、慢性の細菌感染症です。かつては「らい病」と呼ばれ、遺伝病のように考えられていた時代もありました。1873年に、らい菌を発見したノルウェーのアルマウェン・ハンセン医師の名前をとり、現在は「ハンセン病」と呼ばれています。この稿では、なるべく現在の呼び方である「ハンセン病」と記述しますが、当時の言葉を引用する箇所については、当時の時代背景を理解するために当時のまま記述しています。

◎協力・写真提供 財団法人神山復生病院 復生記念館

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