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見聞

柳 宗悦〜 「民藝」運動に生涯を捧げ、朝鮮の国・民族・文化を愛し弁護した「民藝運動の父」(最終回)

◆ 朝鮮の人たちへの情愛と弁護

 1919(大正8)年3月1日、日本統治時代の朝鮮で独立運動(「三・一独立運動」と言われます。)が行われました。当時、朝鮮人は軍隊に鎮圧され、多数の人々が亡くなりました。宗悦はこの事態に衝撃を受け、同年5月に日本の植民地政策を批判し朝鮮人を弁護する「朝鮮人を想う」を新聞に掲載しました。宗悦は、この後も1920(大正九)年6月の「朝鮮の友に贈る書」(雑誌掲載)などで、日本による朝鮮の武力支配を批判し、朝鮮の独立について理解を示します。こうした宗悦の批判は、警察から危険思想の持ち主として監視される状況をもたらしましたが、宗悦は行動を止めませんでした。
▲柳宗悦直筆の原稿  宗悦は、1922(大正11)年9月に「失われんとする一朝鮮建築の為に」(雑誌掲載)を執筆して、朝鮮総督府が朝鮮王朝の王宮の正殿前に庁舎を建設するため王宮の正門である「光化門」を取り壊そうとしていることを批判しました。この記事の影響もあり、光化門は破壊を免れ、1927年に移築されました。
 こうした文筆活動のほかに、宗悦は声楽家である妻の兼子とともに朝鮮各地で朝鮮民族を励ます講演会と朝鮮の人たちを慰める音楽会を開催しました。1923(大正12)年には、関東大震災で被災した朝鮮人を救済するための講演会を朝鮮で開催しています。
 このように、宗悦は朝鮮時代の民衆的工芸品の美を愛し、その美しさを広く紹介し、破壊から守るだけではなく、それを生んだ国や民族を愛し、朝鮮人の友として行動し続けました。

◆ 日本民藝館の開設と民藝運動

▲日本民藝館 本館 その後、宗悦は木喰仏その他の日本国内の手仕事についても調査、研究を行いました。1925(大正14)年、宗悦は仲間とともに民衆的工藝あるいは民間の工芸のことを指す「民藝」という言葉を生み出し、民藝品の調査・蒐集を進めました。そして、1935(昭和11)年に東京駒場に日本民藝館を開設し、そこを拠点として民藝品の調査その他の活動を展開し、1961(昭和36)年、72歳の生涯を終えました。
 1984(昭和59)年、韓国政府は朝鮮とその民族芸術に対する宗悦の功績に対して、外国人としては異例の「宝冠文化勲章」を授与しました。

◎協力・写真提供 日本民藝館

※三・一独立運動 1919(大正8)年3月1日にソウルで独立宣言が発表され、「独立万歳」を叫ぶデモ行進が行われました。運動はソウルから各地に及び、3ヶ月にわたって繰り広げられ、日本は武力で鎮圧しました。

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