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見聞

浅川 巧〜朝鮮を愛し、愛された日本人(その1)

壷を手に浅川 巧
▲壷を手に浅川 巧
 韓国の首都ソウル郊外の共同墓地に、浅川巧という一人の林業技手が眠っています。彼が生活した当時の朝鮮半島は、日本による植民地統治のもと、朝鮮の人たちへの蔑視や差別が当然のように行われていました。そんな社会情勢の中、彼は自らの意志で朝鮮の国と文化と人々を理解しようとし、そして、心から愛しました。墓の碑文には、ハングルで「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と刻まれています。


◆ 祖父と兄に育まれて

 浅川巧は1891年1月、山梨県の八ヶ岳南麓の村(現在の北杜市高根町五町田)に、父・如作、母・けいの第3子として生まれました。父親は巧が生まれる半年前に病気で亡くなったために、母親が家業の農業兼紺屋(染物屋)を守り、祖父の小尾伝右衛門が父親代わりになって3人の子の面倒を見ました。祖父は俳句の宗匠(俳号を四友)として優れ、茶道や陶芸にも造詣が深い知識人であるとともに、高潔で穏和なその人柄は多くの村人に信頼されていました。父親を知らない巧はそんな祖父を誇りに思って育ちました。
 植物を育てることが好きな巧は山梨県立農林学校に進学します。そして、同じ年に師範学校を卒業して教職に就いた7歳年上の兄・伯教と共に甲府の郊外に家を借り2人で生活をはじめます。子どものときから常に大きな存在だった兄と暮らすことで、兄の影響からキリスト教や白樺派※1の考えに傾倒していきました。

◆ 同じ人間として

 1913年、朝鮮陶磁器の美しさに注目していた兄・伯教は、母を連れて植民地統治下の朝鮮へ渡ります。兄を慕い、その影響を強く受けていた巧も朝鮮行きを決意し、翌年には就職していた秋田県大館営林署を辞め、朝鮮に渡って朝鮮総督府農商工部山林課林業試験所の雇員として働きはじめます。
 当時の朝鮮は、帝国主義に踏み込んでいた日本が韓国併合をおこない、朝鮮総督府による植民地統治を始めていました。これによって朝鮮社会は永続的な厳戒令下におかれた状態となっただけでなく、日本による同化政策の強制や農地・山林の収奪など、民衆は苦しい生活を強いられることになっていました。
 朝鮮の人々に対して日本人のあからさまな蔑視や差別が当然のようにされている状況を目にした巧は、「朝鮮に住むことに気が引けて朝鮮人に済まない気がして、何度か国に帰ることを計画しました」と、心の内を友人の柳宗悦※2に宛てた手紙に書いています。
 同じ人間として、朝鮮の人たちと真の友人として関わりたいと考えた巧は、朝鮮語を習って流暢に話し、普段は朝鮮の衣装を着て、朝鮮の家屋に住み、朝鮮の酒を飲むなど、進んで朝鮮の社会に入っていきました。そのために、よく朝鮮人と間違えられ、時には同じ日本人から屈辱を受けることがありましたが、抵抗することもせず、この国の人たちの苦しみや痛みを知ろうとしました。

協力・写真提供 浅川伯教・巧兄弟資料館

※1 白樺派 雑誌『白樺』の同人やそれに同調する人々をさす。理想主義・人道主義・自由主義的な理念や作風をもつ。
※2 柳宗悦 白樺派に参加。生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え、民芸運動を起こした

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