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見聞

杉原 千畝〜自らの心に従った外交官〜

杉原 千畝
▲リトアニア領事代理の頃の千畝

 杉原千畝という人の名前は知らなくても、「日本のシンドラー[※1]」と呼ばれる人の話はどこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか。1940年、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻によって戦火が欧州全土に拡大していく中、リトアニアの日本領事代理だった杉原千畝は、ナチスの迫害から逃れるためにポーランドを後にしたユダヤ人難民に対し、外交官としての自らの立場や危険をかえりみず、日本通過のビザを発給し、六千人を超えるユダヤ人の命を救いました。彼の人間愛に満ちたその行為は、今でも世界中のユダヤ人社会では語り継がれています。

◆ ビザを求めるユダヤ人難民

地図
▲1939年ころのヨーロッパ  1940年7月18日、リトアニアの首都カウナスにある日本領事館は朝早くからたくさんの人たちが取り囲んでいました。彼らはナチス・ドイツから逃れるために、隣国ポーランドからお年寄りや子どもの手を引きながら、夜を徹して歩いて来たユダヤ人難民の家族の人たちです。みんな日本通過ビザの発給を求めて命がけでこの領事館にやって来たのです。
 当時、ヨーロッパではドイツがオーストリア、チェコ、ポーランドを侵略、さらにオランダやベルギー、デンマーク、ノルウェー、フランスに侵攻して、その戦火はヨーロッパ全土に拡がりをみせようとしていました。
 ユダヤ人の根絶政策を掲げるナチスの手から逃れるためには、今や、ポーランドのユダヤ人に残された避難ルートは、シベリアを経由して日本へ渡り、そこからアメリカやパレスチナなどへ渡るほかに道は残されていなかったのです。

◆ 命令に背いた決断

 「日本の通過ビザ」を求めて必死になって懇願するユダヤ人難民を目の前にして、領事代理(実質上は領事)の杉原千畝は苦悩していました。 ユダヤ人難民
▲領事館に集まったユダヤ人難民 日本の外務省はビザ発給の条件を、「行き先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の相当の携帯金を有する者に発給する」としていたため、避難民のほとんどは受給資格を欠いていました。千畝は緊急のビザ発給許可を外務省に求めますが、どうしても許可は下りませんでした。その背景には、日独伊三国同盟の締結を間近に控えていたことから、むやみにドイツを刺激したくないという国内での政治的事情もありました。
 ユダヤ人難民の人命救助、かたや外交官として本国の指示に従うべきとの判断の狭間に立たされて千畝は迷い、悩みました。その間にも領事館を取り囲むユダヤ人難民は数を増やしてゆきます。そして七月二五日、ついに自らの心に従った千畝は、職を賭して日本通過ビザの発給を決断します。「私は人間として、この人たちを見はなすことはできない」と。
 なお、無謀とも思えるこの決断にあたっては、日本へ上陸できさえすればこの人々は助かるだろうとの確信のもと、千畝はソビエト総領事館に交渉してユダヤ人難民がソ連国内を通過できるよう認めてもらっています。

◆ 「命のビザ」の発給

 7月29日、その日も朝早くから集まって来たユダヤ人難民を前に、千畝は「みなさんがたに、日本の通過ビザを発給することになりました」と大きな声で知らせました。すると一瞬、その場の時間が止まったかのような静寂の後、大きなどよめきと歓声が千畝を包みました。でもそれは、大変過酷な仕事への始まりでもあったのです。
 すでに3000人を超すユダヤ人たちが通過ビザの発給を待っていましたが、1時間に10人分をこなすのが限界です。1人でも多くの人を救いたい。その思いから、千畝は1日に300枚を目標に、食事や寝る間も惜しんで、ビザを書き続けます。でも、ビザ用紙もそんなにたくさんは置いてはいなかったため、なくなってからは全て手書きとなり、予想以上に手間がかかる作業となりました(ビザに貼る印紙が無くなってからは「領事特別許可証」[※2]を発給)。
 そんな作業が20日以上続いた頃には、どんなに気力をふり絞っても、体力はすでに限界となっていました。しかも8月3日、リトアニアはソ連に併合され、ソ連から領事館の閉鎖が通告され、日本の外務省からも至急ドイツの大使館へ移るよう、再々の退去命令が千畝の元へ届きます。
 リトアニア滞在が限界となった9月5日、ついに杉原家はベルリンに向け出発します。駅には、たくさんのユダヤ人が来ていました。汽車が動きだすまでの短い時間を使って、そこでも千畝は通過ビザに代わる渡航証明書を書いて手渡します。
 こうして発給されたビザの記録リストには、名前が残っているものだけでも2000人を超えています(途中から記録を止めている)。1家族で1枚のビザでよかったため、記録から漏れている人を合わせると、少なくとも6000人とも8000人ともいわれるユダヤ人の脱出を助けたことになりました。

◆ 苦難の帰国と転機

 その後、千畝は家族と共にチェコ総領事館、東プロイセン総領事館、ルーマニア公使館に赴任して終戦を迎えます。戦後1年半近くまでブカレスト郊外の兵営に収監された後、シベリア鉄道を経て1947年4月にようやく博多港にたどりつきます。
 何とか無事に帰国ができて外務省に復帰したのもつかの間、6月には省内のリストラを理由として退職に追い込まれます。退職の理由について本人は多くを語りませんが、ビザ発給による命令違反の責任を負わされたとの説があります。
 外務省を退職した千畝は、得意の語学を活かして進駐軍やNHK、貿易商社など勤務を転々とします。そしてリトアニアでの出来事のすべてが忘れ去られようとしていた1968年、東京のイスラエル大使館からの突然の電話が千畝の心のわだかまりを解かしていくことになりました。

◆ みんな忘れない

千畝が発給したビザ
▲千畝が発給したビザ
 おもむいたイスラエル大使館で、参事官が千畝に1枚の古びて黄ばんだ紙切れを見せました。驚くことに、それは千畝がカウナスで発給したビザの1枚だったのです。彼はこのビザによって命を救われた1人でした。そして、イスラエルでは助かった何千という人が、今もこのビザを宝物として大事に持っているそうなのです。なお、再会に28年間もかかったのは、千畝が外国人に発音しやすいよう、自分で「センポ」と名乗っていた理由も一因でした。長い月日が過ぎて時代は変わっても、助けられたユダヤ人達は、ずっと千畝のことを忘れてはいませんでした。
 1985年にはイスラエルの財団から、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人として初めて「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」が授与され、エルサレムの丘には顕彰碑が建てられました。そして1991年、ソ連から独立を回復したリトアニアの首都ビリニュス市内には「スギハラ通り」が設けられ、桜が植樹されました。2008年にはポーランドの叙勲「ポーランド復興勲章コマンドルスキ星十字型章」が授与されました。
 外務省の命令に背いた千畝の行為は、外交官としての服務違反であるかもしれませんが、人間としての正義を貫いて、多くの人びとの命を救った、その勇気と行動は、今も世界で高く評価されています。

●協力:大正出版、杉原千畝記念館、人道の港 敦賀ムゼウム

※1 シンドラー
 オスカー・シンドラー(1908〜1974年)、ドイツの実業家。強制収容所のユダヤ人1100人以上を自分の経営する工場で働かせ、ホロコースト(大量虐殺)から救った。
※2 領事特別許可証
 ビザと同様の内容。ビザより発給要件が簡素で、迅速な出国の必要があるときなど緊急時に用いられるが超法規的意味合いが強い。

西暦 和暦 年齢 事項
1900明治33 0歳1月1日、岐阜県加茂郡八百津町に生まれる
1917大正 6 17愛知県立第五中学校卒業、京城へ転居
19187 18早稲田大学高等師範部英語科予科に入学
1919 8 19外務省留学生としてハルピンに留学
1924 13 24外務省書記生として採用
1932昭和 7 32満州国外交部に勤務
193510 35菊池幸子と結婚
1936 11 36長男・弘樹が生まれる
1937 12 37フィンランド日本公使館通訳官として赴任
1938 13 38二男・千暁が生まれる
1939 14 39リトアニア日本領事館の領事代理となる
1940 15 40 三男・晴生が生まれる
ユダヤ人難民へ大量ビザ発給
チェコ日本総領事代理として赴任
1941 16 41東プロイセン日本総領事代理として赴任
ルーマニア日本公使館一等通訳官として赴任
1945 20 45ブカレスト郊外のソ連収容所に収監
1946 21 46帰国のためブカレスト出発。シベリアを横断
1947 22 47帰国。外務省依願退職。三男・晴生死去
1951 26 51四男・伸生が生まれる
1968 43 68ユダヤ人難民の1人と再会
1969 44 69イスラエル訪問
1975 50 75貿易会社を退職
1985 60 85イスラエル政府より「ヤド・バシェム賞」を受賞
1986 61 867月31日、鎌倉市にて死去

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