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見聞

澤田美喜 〜孤児の母として捧げた半生〜

最初の子どもたちと澤田美喜
▲最初の子どもたちと澤田美喜

 湘南のJR大磯駅前には深い緑に覆われた小高い丘があります。その木々に守られるように児童養護施設エリザベスサンダースホームと聖ステパノ学園小学校・中学校があります。この地は、戦後の荒廃した社会を背景に駐留軍兵士と日本人女性との間に生まれ、貧しさや偏見ゆえに祝福されることなく棄てられた孤児が救済され育っていった場所です。この施設の創設と2,000人もの孤児の母として半生を捧げたのが澤田美喜です。

◆ 財閥家に生まれ

 美喜は三菱財閥の3代目当主・岩崎久弥(創業者・岩崎弥太郎の長男)の長女として1901年に東京で生まれました。生家の一部は、上野不忍池の近くに「都立旧岩崎邸庭園」として残されています。厳格な家庭環境の中、おばあちゃん子としてなに不自由無く育ちますが、活発な彼女にとっては広い邸宅を囲む塀の内側だけの生活には物足りなさを感じていました。
 16歳になった美喜が静養のために大磯の別荘で過ごしたとき、付き添いの看護婦が読んでいた聖書の言葉に心をひかれます。真言宗への篤い信仰をもつ家系であることを承知しながらも、キリスト教への興味を押さえきれず、父親にねだって教会の礼拝に出かけたり、所持を禁止された聖書を同級生から入手するようになり、ついに心配した家族から通学を禁じられ、自宅で一流の家庭教師による芸術教育を含む幅広い学習を命じられました。

◆ 外交官の妻として

 最初の転機となったのは、外交官の澤田廉三(のちの初代国連大使)との結婚でした。その決心をさせた理由は、廉三がクリスチャンだったこと、そして憧れていた外国での生活ができることだったようです。
 結婚後は廉三の任地のブエノスアイレス、北京、ロンドン、パリ、ニューヨークへ随行し、その間、3男1女の母になります。物怖じしない性格から外国生活では多くの友人を得ますが、外交官夫人としての生活に慣れる程に、華やかな社交界への空虚感や損得中心の人間関係に疑問を持ちはじめ、次第に社会事業へ心を引かれて行きます。そんな中、ロンドン郊外にある「ドクター・バナードス・ホーム」という孤児院を訪ねる機会があり、その施設や環境、そしてなによりも明るい孤児達に接して感動し、そこでの奉仕活動が彼女の生活に充実感をもたらします。
 やがて、日本が戦争に向かって突き進みはじめた1936年に澤田家はニューヨークから帰国します。太平洋戦争が始まり3人の息子は出兵、三男・晃の戦死の報に美喜は深い悲しみに沈みます。

◆ 孤児救済への決心

 荒廃した日本の社会にも平和への希望の光が射していました。しかし、その陰では敗戦国としての悲劇も生み出されています。その1つが「混血」と蔑称される子どもたちの誕生です。誰からも祝福されずボロ屑のように捨てられる蒼い目や黒い肌の子どもたちの現実を見聞きするにつけ、心を痛めた美喜は日本での「ドクター・バナードス・ホーム」実現へ心が突き動かされます。そして、その決断をする運命的な事件との遭遇がありました。
 1946年、混雑した列車の網棚にあった風呂敷包みが下に座っていた美喜の手元に落ちてきました。たまたま列車に同乗していてヤミ物資の取り締まりに当たっていた鉄道公安官が、包みを不審に思い開けてみたところ、何枚もの新聞紙につつまれた黒い肌の乳児の死体が入っていたのです。その子の母親との嫌疑が美喜に掛けられますが、乗客の1人から名古屋で降りた若い女性の持ち物であるとの証言を得て難を逃れます。だが、彼女の耳に『もしお前が、たとえいっときでもこの子の母とされたのなら、なぜ、日本国中の、こうした子どもたちのために、その母になってやれないのか…』という神の声が聞こえました。この啓示が彼女に孤児救済へ人生を捧げる決心をさせた瞬間でした。

◆ エリザベスサンダースホームの設立

 ▲エリザベスサンダースホームの遠景  孤児救済事業の実現に向け美喜は無我夢中で行動を開始します。夫の廉三や父の久弥は理解を示してくれましたが、戦後の財閥解体により国に財産が接収されていて元手が全くありませんでした。また、施設として使用するのに適当と思った大磯の別荘も財産税の代わりに物納されており、政府に掛け合うと400万円で買い戻すように言われます。自分の財産を全て換金し、さらに借金や寄付によってなんとか買い戻しますが、生まれてからお金のことなど考えたこともなかった彼女にとっては苦難の連続でした。
 その間にも、ホームへは孤児たちが次々と加わっていきましたが、運営資金の不足からミルクも買えない状況も生じました。そんな時、美喜は自分の大切な持ち物を売り払ってミルク代にしました。また、乳母役を申し出てくれる女性や、こっそりミルクを届けてくれる占領軍兵士などの多くの善意に支えられながらホームは運営されてゆきます。
 そして待望した最初の寄付がありました。その寄付者エリザベス・サンダース女史にちなみ、ホームを「エリザベス・サンダース・ホーム」と名付けます。

◆ 孤児たちの母として

▲ホームへつづくトンネルと旧本館
ホーム内の旧澤田邸
▲ホーム内の旧澤田邸  当時、孤児たちに向けられる世間の視線は冷たく、偏見や差別意識で満ちていました。そこから発せられる無神経な言葉に幾度となく美喜は怒りを押さえきれなくなってしまいます。そして、学齢期に達したホームの子どもたちの心を社会から守り、人としてのプライドを持たせようと敷地内に戦死した三男・晃の洗礼名をとって名付けた聖ステパノ学園という学校を設立します。さらには、日本より偏見の少ない米国への養子縁組をすすめ、500人以上を送り出します。まさに、我が子を危険から守ろうとする母親の姿がそこにあります。
 孤児たちに対する厳しい差別の現実はありましたが、美喜はきっと乗り越えてくれると信じて、孤児一人ひとりの母として愛情と厳しさを持って育てます。それは、祝福されずに生まれた子たちが、親のそろった子たち以上に幸福になってもらいたいという願いが込められています。でも、ホームの中には彼女の願いを踏みにじる子どもたちもいました。そんなとき、本気で怒り、泣き、悲しむ、「母」そのものの彼女がいました。
 晩年まで美喜はホームの子どもたちの母として行動し、卒業生の相談相手をしたり、募金活動のために世界各地で講演を行い、その旅を介して世界の各地で暮らす「わが子」を訪ね歩きます。
 「海外に出した養子たちも落ち着いてきたし、子どもを置き去りにする人もいなくなったし、私の仕事は終わったのかも…」と述懐していた美喜は、1980年、旅行先のスペインのマジョルカ島でその生涯を閉じました。

■ 現在のエリザベスサンダースホーム

 家庭のさまざまな事情から親と一緒に過ごせない2歳〜18歳までの子どもたち100人を預かる社会福祉法人・児童養護施設として活動しています。

澤田美喜碑
▲澤田美喜碑

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