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見聞

石川倉次 〜日本点字の研究と発展に努めた生涯〜

 今日、私たち一人ひとりがかけがえのない人間として尊重され人権が護られるのが、ごく当然の権利として認識されるようになっていますが、ここに至るまでには多くの人たちの弛まぬ努力や献身的活動がありました。このコーナーでは国内の人権に先駆的に尽くした人物にスポットを当てその足跡を辿ってみます。
 今回は、フランス人のルイ・ブライユが考案した6点点字を基礎にして、日本語に合うように研究と工夫を重ねて「日本の点字」を完成させ、その普及に生きた石川倉次を紹介します。

◆ 激動の時代に生まれ

石川倉次
▲ 石川倉次
 倉次は1859年、井上藩士の石川専七、母ゑしの長男として浜松市に生まれました。
 両親や祖母の愛情のもと、向学心旺盛で心豊かな少年に育ちますが、時代は幕末から明治へ大きく揺れ動き、藩主の上総国への転封によって、石川家も市原市鶴舞へ転居となります。倉次9歳の時です。さらに、藩籍奉還で職を無くした父は家族と離れて仕事を求めて千葉県の各地を転々とする身となります。病弱な母も生活のために、まだ幼い倉次の妹弟を養育しながら針仕事や近所の手伝いなどをして懸命に働きました。そんな母を見て倉次は、早く一人前の大人になりたいと思い、学問に身を入れてゆきます。

◆ 教育者への道

 鶴舞小学校を16歳で卒業した倉次は、その優秀な成績と才能を認められ、卒業と同時に母校の助教師に採用されます。さらに、正教師の資格を得るために千葉師範学校教員検定試験に合格、正教師として水沼小学校(現長南町西小学校)へ赴任します。そんな中、母が亡くなり、妹弟は父と銚子で暮らし始めます。なお、単身となった倉次は教師を辞め、新聞記者になろうとしますが叶えられませんでした。
 1878年、あらためて高い志を胸に教師となる決意をした倉次は千葉師範学校へ入学、同校師範科を卒業した後、鷲野谷小学校(現手賀西小学校)や浜田小学校(現幕張小学校)で教鞭をとり、教育者としての才能を開花させていきます。そして、22歳の時に久野さのと結婚します。また、このころから都内での仮名文字会に出席して表音文字の研究を始めています。

◆ 小西信八との出会いと転機

1937年の小西信八と石川倉次
▲ 1937年の小西信八(左)と石川倉次(右)
 1885年、長女・千代が生まれます。また同じ頃、倉次は茂原小学校への赴任となり、茂原で親子3人での充実した生活を始めます。ところが翌年1月、差出人『楽善会訓盲唖院内 小西信八』から、楽善会訓盲唖院への赴任を促す手紙が届きます。彼とは仮名文字会で知り合い、日本の文字の改良でお互いの意見を交換する仲でしたが、小西の勤める学校の名前を聞くのも初めてですし、どのような教育をしているのかも想像できませんでした。
 一度は申し出を断わったものの、その後も小西から障害教育の現状を訴え、倉次の協力を必要とする旨の手紙が届きます。そして、1886年2月、小西の誠意と熱意に促されて倉次の上京が実現します。 楽善会訓盲院
▲ 楽善会訓盲院

◆ ブライユ点字との出会い

凸文字の教科書
▲ 凸文字の教科書
 小学校教育制度の上では訓盲唖院と一般の尋常科との教育内容には大差ないものの、生徒にしっかりと学力をつけてもらうためには、適切な触読用文字を必要としていました。当時は漢字や仮名を浮き出しにした凸文字の教科書ですが、何という文字がそこに書かれているのかを理解するのに生徒は大変な苦労をしていました。その姿を目にして、倉次は触読用文字の研究・考案への使命を痛感します。そして、凸文字書を前に考え込む日が続くようになります。
 そんな時期、イギリスの教育者が書いた「盲人の職業と教育」を読んだ小西は、フランス人のルイ・ブライユが考案した点字の優秀さを知り、そしてブライユ点字を日本点字へ翻案研究するよう倉次へ依頼します。
 承諾した倉次は寝食を忘れて点字研究に没頭します。ブライユ点字は3点2行()の6点点字と言って欧米文字を表現するのは十分可能ですが、日本語は表音文字(仮名)だけでも100を超え、6点では無理がありました。そのため倉次はブライユ点字の基本に従いながらも3点4方()の8点点字への研究に邁進します。しかし、小西からは『世界との共通性』を理由に研究のやり直しを助言されます。

◆ 理想の点字を求めて

 独創の8点点字へこだわりが、6点点字移行への葛藤と苦悩を倉次に生じさせます。この頃の逸話に、食事中、箸と茶碗を持ったまま、いつまでも考え込んでしまったり、妻のお産をすっかり忘れていて、隣室からの産声で初めて出産に気づいたこともあったといいます。
 3点2行の6点点字を模索し続けた倉次は、次々に6点点字配列表やその改良案を発表していきます。その独創のひとつが前置付加点方式(清音文字の前に濁点符等を置く方法)です。この方式を生徒たちへ試みて、触読しやすい結果を得られたことから、日本点字の完成に自信を深めます。そして、1890年11月1日、学内で開かれた点字撰定会で倉次の案が支持され、日本点字として採用が決定します(11月1日は「点字の日」となっています)。

◆ 点字の普及活動

石川式点字タイプライター
▲ 石川式点字タイプライター
 倉次は日本点字の普及を図るために全国の盲学校や関係団体へ「日本訓盲点字一覧」を配布したり、各地で点字の指導・解説活動をおこないます。それは、次第に全国の視覚障害者及び教育者に浸透していきました。そして、1901年4月の官報に「日本訓盲点字」として掲載され、名実共に「日本の点字」になりました。また、点字を表記するための「点字器」や「点字タイプライター」も開発しています。こうして倉次の「日本点字」は社会で生活する視覚障害者へ『文字の光』を与えました。
 倉次は点字を完成させた後も、東京盲学校や東京聾学校などで教育に携わりながら、日本点字の普及と指導を続けて行きます。晩年は、父が暮らした銚子で過ごしていましたが、1944年、太平洋戦争により疎開した群馬県安中で85歳の生涯を終えました。まさに日本点字の研究と発展に尽くした人でした。

(写真は筑波大学付属視覚特別支援学校より提供していただきました。)


■楽善会について
 1875年、日本に聴覚・視覚障害者のための学校設立を志す古川正雄、中村正直、津田仙、岸田吟香らが組織。訓盲院(1879年)、訓盲唖院(1884年)、官立東京盲唖学校(1887年)などを経て、今は筑波大学附属視覚特別支援学校と筑波大学附属聴覚特別支援学校に至る。
■凸文字教科書について
 楽善会訓盲院が大蔵省印刷局に委託して作成された。板に文字を彫り、厚手の和紙を水に浸して軟らかくしたものをその上に置き、上から押さえて文字を浮き出させ、これを乾燥させて作成した。


点字の例
点字の組み立て
点字の組み立て

●点字は縦3点、横3点の六つの点を組み合わせて作る表音文字で、左上から下へ(1)の点、(2)の点(3)の点、右上から下へ(4)の点、(5)の点、(6)の点と言います。
●母音は(1)(2)(4)の3点を組み合わせて作り、残りの(3)(5)(6)の2点を組み合わせて作る子音で五十音を構成しています。


石川倉次年譜
西暦 和暦 年齢 事項
1859 安政6 0歳 浜松に生まれる
1868 明治1 9 家族で千葉の長南町〜市原市鶴舞に転居
1871 4 12 鶴舞藩校、克明館入学、後に鶴舞小へ編入学
1875 8 16 千葉師範学校教員検定試験合格、水沼小に赴任
1877 10 18 水沼小学校依願退職、新聞社への就職活動
1878 11 19 千葉師範学校受験、成績優秀につき第3級に編入
1879 12 20 千葉師範学校師範科卒業、鷲野谷小に赴任
1880 13 21 浜田小に赴任(校長兼務扱い)
1881 14 22 久野さのと結婚
1884 17 25 仮名文字会研究会で小西信八と知り合う
1885 18 26 茂原小に赴任
1886 19 27 小西から勧誘され楽善会訓盲唖院雇となる
1887 20 28 小西からブライユ点字を翻案研究するよう依頼
1888 21 29 3点4方の8点点字を発表
1890 23 31 3点2行の6点点字配列表を発表
点字選定会で倉次案が採択
1898 31 39 点字拗音組織を発表、懐中点字器を製作
1899 32 40 東京高等師範学校教諭に任
1901 34 42 「日本訓盲点字」として、倉次翻案が官報に掲載
東京盲唖学校教諭に任、同校訓導も兼務
1904 37 45 石川式点字タイプライター完成
1910 43 51 東京盲学校教諭に任
1925 大正15 66 「日本盲人用点字の起源」の原稿執筆
1944 昭和19 85 群馬県安中へ疎開、永眠

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