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露の新治 「新ちゃんのお笑い人権高座」 (6席)

狭山事件と狭山差別事件

 ご存知の方も多いと思いますが、狭山事件は1963年(東京オリンピックの前年)5月1日、埼玉県狭山で起きた誘拐殺人事件です。被害者は高校1年生の中田善枝さん。下校時に行方不明になって、夕方脅迫状が見つかります。そして指定された佐野屋という酒屋の前にお姉さんの登美恵さんが立ったのが5月2日の深夜。前は茶畑。脅迫状には「車で行く」と書いてあったので道は押えてあったのですが茶畑は手薄でした。犯人はその裏をかいて茶畑から徒歩で現われた。(3日午前0時)。お姉さんと言葉を交した犯人は警官に気づき金も取らずに逃げてしまいます。40名程の警官が飛び出した時は後の祭りで、警察は3月31日の「吉展ちゃん事件の犯人取り逃がし」に続いてまたもや取り逃がしてしまったんです。今やったらワイドショーで袋叩きでしょうが、当時は新聞が書きたてた。そして4日、善枝さんの死体が発見されるという最悪の展開。捜査本部には「日本の警察力のメンツがかかっている」と云われる程のプレッシャーがかかります。そこで焦った警察が近くにあった被差別部落に捜査を集中するというまちがい(差別)を犯してしまうんです。その結果、当時24歳の石川一雄さんを犯人とみなしてゆくという冤罪事件を引き起こしてしまうんです。
 狭山事件というのは被害者が中田善枝さん、加害者は真犯人。この事件をきっかけに、警察が同和地区を集中的に調べ、石川さんを犯人と見なしてゆくという差別事件を引き越こすのです、これが狭山差別事件。これの被害者は地区と石川一雄さん。加害者は警察とマスコミと世間。どちらも加害者、被害者が別の事件ですが。石川さんが狭山事件の被告にされてしまって、両者が結びつけられてしまうんです。すると、外から見ると「狭山事件は同和の絡んだ、うっとおしい事件」と、偏見を持っていた僕には見えていたんです。僕は正直言って「狭山事件」に関心を持ってませんでした。狭山が埼玉県というのも知らんかったんです。大阪の河内に狭山という所があって、そこは遊園地で有名だったんで、そこやと勝手に思うてました。
 1974年10月31日にこの事件の高裁判決があり、無期の判決が出ました。話題になっていたので、この判決骨子を呼んだのが最初の出会いでした。読んでみると漢字だらけの難しい文章ですがどうも納得しないのです。供述内容に食い違いがある事を初動捜査のミスと認めながら、石川さんが死刑を逃れたいために真偽をまじえて供述した為とし「自白の誘導・強要」をしりぞけています。これはええとこどりで、警察のミスはまったく消えてしまってます。その後自白を離れて証拠物や鑑定の結果に基づいて検討と言いながら、いきなり脅迫状は被告人の筆跡であると断定し、挙句の果てに「細部についてはともかくとして・・・・・・被告人が犯人であるという大筋において誤りはないから」・・・・・・(ほんまにこんなんでええのやろか)素人目にも説得力の無い文章でした。実はこの時点でまだ僕は石川さんを犯人やと思ってました。けれどこの文章で「おいおい、ちょっとおかしいで」と思い、少しずつ知っていったのです。そして脅迫状と上申書(石川さん自筆)の字の違いを見た時にハッとしました。小学校の時、朝鮮の子で、おちこぼされてた子が同じような字を書いていたのを見てたからです。字に自信がない人は筆跡が流れません。そして部落への集中的な捜査を知るに及んではっきりとわかりました。僕のふるさとでも日本人と朝鮮人のどちらが疑われるかと言えば朝鮮人だという事を知ってたからです。その不公平な扱いの根拠が、どこに生まれた、親が誰やという本人の責任でないことやと友達から教えてもらった時に「ああそうか、石川さんも僕の友達の朝鮮の子も自分の責任とちがう事で不当に分けへだてをされたんやなァ。それが差別か、それやったらわかるなァ」とストンとおなかにおちたような感じでわかりました。「すると今までなんで石川さんを犯人と思てたんやろ?ろくに知りもせんと」。僕が知ってたのは狭山、石川一雄、そして同和ということだけでした。「結局、同和というイメージだけで悪く思っていた。」という事を認めざるを得ませんでした。それが差別意識やねんと言われた時は辛かったですが確かにそうでした。
 この先僕がどのように生きていくかわかりませんが、自分の人生、自分が主役、隣の人の人生、隣の人が主役。あせらず、較べず、怠けず、思うなら、自分から、できる範囲で、けど本気で、あくまで本気でというスタンスは持ち続けたいと願っております。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。

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