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クローズアップ

露の新治 「新ちゃんのお笑い人権高座」 (5席)

隣の家に蔵が建つと

 そしたらなんでそれ程簡単に「差別」を受け入れてしまったのか。僕の場合、結局「優越感をくすぐられるのは嬉しいし、自分より下の存在はすんなり受け入れる」という心根にあると思います。もちろんこんなもん持って生まれたのではありません。今の社会は何から何まで競争・比較・優劣・上下の世の中です。そんな中で僕らは他人と比較することでしか自分の値打ちを計れないというひ弱な心にされてしまっているんです。その結果、あれよりましやという優越感の対象がなかったら頼りないわけです。そのうつろな所へ差別がスポッと入りよったんです。
 実際僕らは較べることが好きです。うちの子が生まれた時聞かれたのが「何グラムあった?」「2980ぐらいでした」と言うと「いやー、ちょっと足らんねェ」八百屋でキャベツ買ってんのとちがいます。すぐこれです。昔も今も兄弟姉妹は較べられて競わされる。「お兄ちゃんは勉強よおできたけど弟はなァ」「弟はしっかりしてるのに兄貴は頼りない」兄も弟も嬉しくありません。うちも女の子二人です。姉の姿勢が悪かったりすると「お姉ちゃん背中!」とか言います。するとおかしいのは姉に注意してるのに妹の方がスッと反ります。昔の僕でしたら言うてました。「見てみ、妹はちゃんと伸びてるで、お姉ちゃんは妹に負けてるがな、妹に笑われるでぇ」こう言われると、姉はしぶしぶ姿勢を正し、親も自分の言う通りになったので気は済みます。けど姉の心には「怒られて悔しい、妹にええ格好されて腹が立つ」しか残りません。自分から姿勢を良くしようという気にはなりません。しつけにも教育にもなっていないのです。較べて、競わせて言うことをきかすのはその場はいいでしょうが後に何も残りません。自主性・主体性とは無縁のもんです。僕は子供の時、較べられるのがものすごく嫌でした。較べて競わされたらわざとええ加減にやったほどです。同和問題を通じて「およそ自分がされて嫌なことは人にしたらいかん」という大事な原則を学びました。だから「較べない」、「競争させない」ことを大切にしています。「お姉ちゃんの姿勢を問題にしてんのや、妹は関係ない、お姉ちゃんはお姉ちゃんの悪いとこ直して、ええとこ伸ばす、妹は妹や」と敢えて別々にします。えらいもんですなァ、二人別々にしてると仲がいいんです。一致団結して親にはむかってきます(辛い〜)。
 また兄弟やから較べてしまうので、一人っ子やったら較べられないかというとそうやない。法事の席、従兄弟同士で品評会される。「義夫ちゃんよおできるんやてなァ。うちの和男あかんねがな。義夫ちゃん、うちのにちょっと勉強教えたってえな。和男!義夫ちゃんに勉強教えて貰いなさい。」なんで法事の席で勉強せなあかんねん。義夫ちゃんと和男君なんとなくしっくりいかんようになります。学校へいったらそれこそパイナップルの缶詰の輪切りで、誰より上で誰より下、だいたいクラスのここら辺。こんなことばっかりです。テストで80点とります。「お母ちゃん80点や」「そう良かったねぇ」で終わらへん。「それで他の子は?」。言いた くありません。自分が80点ぐらいの時は他もいい点なんですから。「他の子も80点とか90点」「それやったらあかんやな いの、テストがやさしかっただけやな」そらそうやろけどやる気に水をささんでもええやないですか。逆に60点でも他が悪かったら風当たりがましになる。「え〜60点、もっとがんばらな。ほんで他の子は?」「ウン他の子もそれぐらい。ええ子でも60点ぐらいやねん」「ヘェーそしたらよお頑張った方や、テスト難しかってんなァ」(誰が基準や!)。周りとの兼ね合いで評価が決まる。子供は答案用紙より点数を、点数より順位を気にするように仕向けられてるんです。それで子供が周りの子との兼ね合いばかり気にする、いわゆる子供なりの世間体意識を持つんです。子供はよく言います。「お友達と一緒でないとイヤ」「傘は赤でないとイヤ」「髪の毛は美容室で切りたい」全部お友達です。娘は勝手なもんです。さんざんお友達と較べて気にするように仕向けておいて、いざ子供が気にした時は「お友達はお友達、あんたはあんたでしょ!」。こういうのをご都合主義というんですやろなァ。
 較べられる中で身につくのは勝った負けたの競争意識。勝って嬉しい、負けて悔しい。競争も全く意味がないとは思いません。頑張るための励みや目安になります。ただ励みも目安もどこまで行っても手段であって、目的ではありません。勝ち負けそのものを目的にするからおかしくなるんです。勝った負けたはスポーツの世界にまかして、人生は勝ち負けにこだわらずいきたいものです。競争は人生の目的やないと思います。またこの競争、こだわる割にはターゲットの範囲がものすごく狭い。とことん上も、とことん下も視野にない。つまりは勝ったり負けたりする、ちょぼちょぼどうしのせめぎ合い。負けて悔しいのはそれまで勝ってるからで、負けっぱなしの相手には悔しい気もおきません。そこら辺を昔の人は「隣の家に蔵が建つと腹が立つ」と見事に表現しています。確かにそうです。隣に蔵が建つからイライラするんであって、元々建っている大きな蔵には腹が立たんのです。ならば隣の蔵など気にせず、自分の家に自分なりの蔵を建てるべく頑張ったらええわけで、較べることは無意味です。僕ももちろんまだできません、発展途上です。今は「隣の家に蔵が建っても腹が立たないような生き方をしよう。けど燃えたらなぜかスッとする(情けなァ〜)」というのが正直なとこです。
 けどそれを目指して生きるのと、所詮世の中勝ち負けやと思って生きるのとでは5年、10年後にはちょっとは違ってくると思います。また目指すべきです。勝った負けたがとことん上を目指すものでないなら、行き着く先は「あれよりましや」と下見て暮らす情けない心根です。そしてあれよりましやと思う為には「あれ」が必要になるんです。僕らは心の弱さのすき間に色んな「あれよりまし」を入れて自分を支えています。「お金」「地位」「学歴」「家」けどこんなもんはいつ逆転するかあやういものです。僕らのレベルでは宝くじ一発当たったら「お金」なんてすぐに逆転サヨナラゲームです。すると簡単にはひっくり返らないものを入れようとします。逆転不可能な不変の優越感の対象、即ち差別ということになります。差別は本人の責任でないことですから、本人が努力して変えられるもんではありません。だからいったん優越感を持つとずっと持ち続けられます。 例えば、今は世界中の人の鼻の穴は2つですが、これがもし欧米が3つで、日本が2つ、そして途上国が1つとしたら、僕らには3に対し劣等感を持ち、1に対して優越感を持つでしょうね。その1つの国の人達が「お金」や「地位」を得ても負け惜しみは言えます。「なんぼ金を持ってるか知らんけど、所詮一つやないか。うちは言うても2つやねんから、大丈夫」。何が大丈夫かわかりませんが、こんなこと言ってごまかすんでしょうね。何にもならへんのに。その代わりアメリカへ旅行する時は「2つ」や言うて焦るんでしょうね。何とか3つにと、シールを貼るのがでてくるかも知れません。鼻の穴の数は架空ですが、現実には「どこで生まれた、親が誰か、国籍、皮膚の色、目の色、髪の毛、体格、体型、病気、障害、男か女か等々・・・・・」限りなく本人の責任でない分け隔てのネタがあります。そして誰もが何かで自分を縛り、コンプレックスを持つ。そして他のネタで「あれよりましや」と自分を慰める。こんな寂しい心根で、一遍しかない授かりもんの人生を大事にできると思えません。
 差別意識に気付づき、差別意識を取り除くことから始まって、あれよりましやと慰めなければ支えられない心根の弱さに気づき、自分の人生において自立していくことやと思わしてもらいました。自立してこそ人生や、自分の値打ちは自分で見極められる。そうや自分の人生、自分が主役や。自分の責任のことは自分で引き受けて頑張る、そうでないことでクヨクヨする必要もない。コンプレックスなんか、ほんまは自分の責任でないことで悩んでいるだけや。焦ることもないし、較べることもない。そして怠けることもない。自分の人生に、自分なりの蔵建てるように頑張ったらええねん。そうや、思うんやったら自分からや、できる範囲で、無理せんと、けど本気で・・・・・。ほんまに同和問題との出会いで僕は生き方の腰が据ったように思います。ありがたい事です。そしてその最初のきっかけがあの「狭山事件」なんです。

次回に続く

  • 狭山事件と狭山差別事件

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