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クローズアップ

露の新治 「新ちゃんのお笑い人権高座」 (3席)

直接的差別と間接的差別

 大阪市生野区で生まれた僕は差別を目のあたりにして育ちました。アパートや文化住宅に「外国人お断わり」の貼り紙があったのをおぼろげに覚えています。その頃外国人と言えばマリリン・モンロー、ジョン・ウェインなどの白人でした。それが友達の朝鮮の子を指していると知っても、それが「差別」とはわかりませんでした。「かわいそうやなァ」と思っただけです。「かわいそう」ではいかんのです。「まちがいや」と言わなあかんかったのですが、誰もそれが差別やとは教えてくれませんでした。あの頃差別という視点で物を見るということは、まだ一般的ではありませんでした。部落解放運動ありせばこそ今日の地平がきりひらかれてきたのです。これは紛れもなく差別貼り紙です。アパート・文化住宅でお断わりをされても仕方ないのは「敷金・家賃を払わん人」「家を汚す人」です。これはその人の責任です。お断りされたくなかったら、きちんとすればいいのです。けど国籍でお断りされることはありません。国籍は本人の選んだもんでもありません。その事でいいとか悪いとか言うべきことでもありません。その人の中味となんの関係もないことです。だから不当な分け隔て、すなわち”差別”なんです。不当な事をしたらいかんのです。ところが、その頃は「かわいそう」だけでした。かわいそうというのは聞こえはいいけど、所詮「私はそうでなくてよかった」「ああなりたくない」の裏返しです。「朝鮮人はお断りされるんか、朝鮮人は損やねんなァ。 ああ、僕は日本人やからセーフやねんなァ」とその貼り紙を認めて受け入れてしまったのです。僕らみたいなその他多勢が認めてしまうから、差別貼り紙があり続けたわけです。僕らは積極的ではなかったし、悪気もなかったのですが、差別(貼り紙)を間接的に支えてしまったのです。差別には貼り紙を貼るような直接的(一次的)なのものと、それを支える間接的(二次的)なものがあると思います。この間接的な方は悪意がないだけに実にわかりにくい(自覚しにくい)のです。これをわからしてくれたのはやはり同和問題でした。

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