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塩見 鮮一郎 「東京の同和問題と浅草弾左衛門」 (その4)

「役」としての番と革

挿絵  さて次に、弾左衛門がどんな仕事をしていたか、話をしましょう。弾左衛門というのはひとつの「役」の名前でありまして、江戸時代の最初に出てきた弾左衛門を第一代と呼べば、十三代続いています。十三代ともみんな弾左衛門という名前です。

 この「役」なんですが、被差別部落の問題を考えるときには一番重要なことです。ひとつの役は番、もうひとつは革があります。

 番は警察の下級の仕事です。警察の仕事は町奉行が引き受けていました。当時の町奉行は、都庁と警察と裁判所をあわせたもので、すごい権力を持っていました。処刑する権利も町奉行が持っているわけですが、処刑の手伝いと、江戸の街のなかでの、人間の死体だけでなく動物の死体も含めて堀などに浮かんでいるものの清掃(清めという)の仕事を穢多身分の者にさせました。

 引き回しとかいって、刑罰を受けた人が江戸中引き回しされて見せしめとされる行列のなかで、先が尖った棒などを持って、あるいは先頭で犯罪の内容をかいた看板を持ったりして歩く仕事を、弾左衛門たちはさせられたのです。

 つぎに革のほうですが、江戸時代は牛馬の殺傷は禁じられている。そうしますと革というのは、牛や馬が死なない限り入手出来ないわけです。牛や馬が死んだときに、すかさず、そこにとりにいくという仕事をだれかがやらなければいけなかったんですが、やはり穢多身分の人にその仕事がきたわけです。あるいはその仕事がずっとあって、それで彼らが穢多身分というふうな身分になったのか、それはわかりませんが、この仕事と密接に結びつくわけです。

 百姓の村がいくつかありますと、ところどころに馬捨て場というのをつくります。百姓家で馬や牛が死ぬと、必ずここへ持っていって置かなければいけないのです。勝手に捨てるに忍びないからといって埋葬したりすると、この村の人は厳しく叱られるわけです。ここに石の仏さまを作って花桶などを置いてあります。これはだいたい馬頭観音という観音様の石碑が多いです。古い馬頭観音、つまり江戸時代に出来た馬頭観音がある場所はたぶん馬捨て場であったと思ってよいだろうと思います。関東地方は非人の人が毎朝一回、この馬捨て場を見て回るんです。そんなに死なないから、だいたいないんですけれど、あると、穢多の身分の親方、在方の親分は小頭というんですが、その人のところに、その非人が「親分、見つかりましたぜ」といって来るわけです。そうするとこの長吏小頭の親分が、早速穢多身分と、その辺に住んでいる非人身分を呼び集めて、すぐ捨てられている馬を取りに行くわけです。

挿絵  近くを流れている川の河原で処理し、革をつくるんですが、この革は関東地方のものは全部、弾左衛門に所有権があるのです。しかし、群馬のほうから江戸までもってくるのはたいへんですので、出来上がった革は近くの城下町の革細工師のところなどへ運ばれて、一枚につきいくらというお金が小頭から弾左衛門に対して支払われるというふうになっています。この革は細工師の手によって鎧になったり、馬の鞍になったり、煙草入れになったり、そういうさまざまなものに加工されて、武士に納入するものは納入する。町家で売るものは町のほうに運んで町の店で売る。これで完全に革のひとつの流れが出来上がっているわけです。だから馬が死ぬ、すぐに彼らが見つけてきて、それですぐに革を作る。それで武士は自分等の必要な革は確保できる。確保するために穢多身分の人を必ず城下町に置いたわけです。被差別部落が完全なかたちで出来上がるのは江戸時代になってからと考えていいのですが、こういう革のルートは戦国時代のほうがもっと切実に必要でした。絶えず戦争が繰り広げられていたからです。

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