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塩見 鮮一郎 「東京の同和問題と浅草弾左衛門」 (その3)

江戸の切り絵図で浅草巡り

挿絵  そこでしかたなく、江戸の古い切り絵図を何枚か求めて、自分で探してみることにしました。浅草寺、吉原など古くからある場所を拠点として調べてみました。

 その近くに浅草弾左衛門の住んでいた場所があり、俗に新町といわれていました。新町に江戸の穢多身分の人はすべて住むように命ぜられたわけです。1800年頃で230軒、江戸幕末の調査で4〜500軒の家がありました。1軒は大家族ではなく核家族に近いので、幕末で1500人位の人々がここに住んでいたと思われます。

 ついでに、非人のことにふれてみますと、吉原の南側に「車善七」という非人の親分の住居がありました。隣に女溜めという、非人の身分の女の人で病気をした人とか、身体に障害がある人とかが、ここに入れられています。東側には、大きな溜めがあり、男の人が入れられていたところです。ここでは草履などを作らせて、そのお金で建物を維持するという方針を幕府はとっておりました。非人といってもいろいろあって、古くから代々続いている非人は、善七の住居の近くに住んでいて、どこにもうまく所属できない浮浪の非人たちは、草地や隅田川の傾斜地に藁で作った小屋に住んでいました。

挿絵  新町について話を戻しますと、弾左衛門の屋敷の中には池があり、部屋数も十数はありました。その他の人は、長屋で、四畳半位の部屋に、家族3、4人が生活していました。ただ仕事等は、代々にわたって保証されていて、安定していました。困ったときには、頭が子分の面倒を見る、何らかのお金を都合してくれるという、義理人情の世界だったようです。

 新町の近くには、弾左衛門の一族の寺でもある本龍寺が あります。弾左衛門の屋敷の周りには、彼の手代(重役)が60名位住んでいました。あたりには、白山神社や旅篭屋もありました。穢多身分の人達が上京したときに、一般の旅篭に泊まることは、幕府によって禁じられていましたので、ここにやってきて泊まるわけです。

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