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クローズアップ

田中 正人 「路地裏の人権」 〜からかいの文化と人権 (その6)

“人権畑”は耕されているか

 必要なのは、一般社会の隅々に、人権問題を同じ人間のこととして受け入れられる下地、つまり”人権畑”があるかどうかです。社会の裾野に、例えば満員電車で「周囲の人の存在、意思を無視しては・・・」と瞬間的に判断できる感覚が根付いているかどうかです。血や肉となっていて、考えなくとも自然に出る慣れになっているかどうかなのです。
イメージ  「畑」が耕されていてこそ、人権や同和のすぐれた知識、研究、研修も、あちこちで芽を出し、普及するのです。波紋が広がり、人権知識が一部のものでなくなるのです。
 「日本人はなぜ、英語が話せないの?」。私は外国人に散々、言われました。もちろん”バイリンガル”と言われる人は、たくさんいます。いや、そこまでいかなくとも、少しはできるんです。ですが、不自由なく会話をしようと思うと、立ち往生してしまうのです。私の基準で言えばそうです。
 でも、「立ち往生組」のこれまた大多数が、書かせれば鮮やかに、英文を書けるのです。読むこともできるのです。書けるのに、読めるのに、自由に話せない・・・のです。
 書くことと話すこと。言い換えれば、知識と意識につながります。
 街を歩いていて突然、外国人に出会い、英語で話しかけられた。さあ、大変!中学、高校の教科書を必死になって頭の中でめくります。書くのなら・・・と思うからなお焦り、「えーと」「あのー」で終わってしまいます。
 「頭の中の教科書」が「知識」です。突然、話しかけられても、身体が覚えていて無意識に反応するのが、「意識」です。平均的な日本人の「英語」--これが、また平均的な日本人の「人権」感覚ではないでしょうか。
 日本人の「人権」への関心度は相当なものです。しかし、その関心の多くが、何か問題が起きた時のための「人権知識」になっていないでしょうか?あるいは、「さあ、人権を考えましょう」と言うときに発揮される「頭の中の教科書」になっていないでしょうか?
イメージ  人権が危機管理対策であっていいわけはありません。その効用ももちろんあるでしょう。しかし、それでは、社会の人権意識は広がりません。熟成しません。
 人権は「◯◯に行けばある」といったものではありません。「◇◇へ行った時だけ、身に付けていればいい」ものでもありません。人が1人いれば人権があるのです。
 社会の隅々で、人権意識が「畑」になっていなければ、例えばいくら同和問題を学んでも、社会全体には広がりません。「畑」がなければ、勉強の場、研究機関内だけの人権で終わってしまいます。「人権知識」というタネを蒔いても芽を出さないのです。
 つまりは、「書ける英語」のままです。目の前に突然、外国人が現われ、英語で話しかけられた時の対応が、日頃の社会での人権感覚なのです。ちょっとした人権軽視にも敏感になれる感覚が「畑」になっていること。「英語」で言えば、いつも会話に慣れていること。それが、突然、話しかけられても身体が反応する「英語」力です。人権で言えば、社会に人権感覚が溢れていると言えるのです。

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