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クローズアップ

作家・ルポライター
川元 祥一
「地域社会の関係性発見」〜なぜそこに部落(同和地区)があると思いますか?(最終回)

(2)革カバン、革靴はなぜ腐らない?

(1)斃牛馬処理・革細工の技術

 動物の毛皮を剥ぐだけなら数日で腐って使用価値を持たない。しかし今ではその毛皮、牛革カバンや靴などはいつまでも腐らない。このことを真剣に考えた人が何人いるだろうか。皮革製品は古代から軍備、防寒具などで活用された。しかしそこにある技術や科学はこの国ではほとんど知られていない。なぜだろうか?その理由をじっくり考える必要があると思う。

 現代でも部落の職業的特徴として知られるのは斃牛馬処理と皮細工だ。この職業も解放令の五ケ月前に「斃牛馬勝手処置令」が出て農民などの自由な売買が認可され、部落の「役」でなくなる。

 といっても、皮細工には高度な技術が必要なため近代でも部落産業と言われるくらいである。その技術は「鞣(なめ)し」といわれ、植物性「タンニン」を生皮になじませ、腐る「皮」から腐らない柔らかな「革」に変える。しかし一方で、近代の軍需として大量生産するため、旧藩閥などの資本が西欧技術を導入し部落産業が衰退していく。

(2)差別観が縛ったもの

 江戸時代は屠畜と肉食が禁じられていた。一六一二年「牛を殺す事御禁制なり。自然死するものには一切不可売事」(『近世被差別部落関係資料集』)の禁令が出る。また同類の禁令は度々出ている。そのため皮革製品の源材としての牛馬は、動力として飼われる農家や町の役牛馬(えきぎゅうば)だ。それが病気や怪我で動力として使用価値を失った時だ。しかしその役牛馬を所有する農民、町人は売ることが出来なかった。解体も禁じられており、部落がそれを行った。それが斃牛馬処理である。しかもそこに売買が成立していないのがわかる。

 その様子を具体的にいうと、農民などは斃牛馬をただで「捨てる」。それを部落がただで「拾う」。これが当時の日本社会の特徴であり地域社会の関係性である。部落問題が発生する一定の条件でもある。

阿波の箱廻・「エビス舞」門付芸は神観念をもって迎えられた
▲阿波の箱廻・「エビス舞」門付芸は神観念をもって迎えられた

 地域社会には斃牛馬の捨場があり、部落にはそれを処理する処理場があった。明治維新以後、肉食文化が一気に広がった時、この処理場が生牛馬(せいぎゅうば)の処理場(=屠場)に変わっていく。このように江戸時代の皮革生産には非常に重要な関係性と、その反対の差別観念が内在する。

 ここまで書くと、読者は気づくことがあるのではないか。解体処理の後「なめし」で細工された毛革、皮革製品は新しい価値、使用価値や商品価値を持つ。役牛馬を飼い所有者だったはずの農民や町人がこのことを知らないはずがない。そうした価値を前に彼らはなぜ自ら解体、細工をしなかったのか?斃牛馬の売買が禁じられていたからと言う理由もあるが、そこには不合理な「強制」がある。なぜこのような不合理な禁令が続いたのか?といった疑問だ。

伊勢万歳。今の「漫才」の原型である
▲伊勢万歳。今の「漫才」の原型である

 そうした疑問に近代的思考があると思うが、残念ながらわが国ではそうした疑問が葬られた。しかし今からでも、我々の社会の内部から生まれるはずの本来の近代について考えておく必要があると思う。

 実は、役牛馬の所有、斃牛馬の所有、結果としての皮革製品、その商品価値の所有、つまりその近代性を主張した農民や町人は当然のようにたくさんいたのである。仮に農民などが解体・細工の技術を持たなくても、役牛馬を所有する者が技術を持つ者に賃金を払えば商品価値を持つ皮革製品は自分の所有なのだ。しかしそうした個人的関係性が成長しなかった。農民や町人の斃牛馬所有の主張は裁判でことごとく敗訴していく(拙書『被差別部落の構造と形成』)。

 農民たちの主張が負けた理由は先の禁令があったからである。しかもその背景には「死穢」に対する忌穢(きえ)と触穢(しょくえ)(穢に触れることが穢として〈忌穢〉された)の観念的制度があった。これが部落差別の観念的原理なのであるが、この観念的原理は「延喜式(えんぎしき)」で成文化され、江戸時代の「生類憐みの令」や「服忌令(ぶつきりょう)」(人間の死を忌穢する制度)で大衆化した(拙書『部落差別の謎を解く』)。

日本舞踊の猿廻し・「靱猿(うつぼさる)」として人間平等を訴えている
▲日本舞踊の猿廻し・「靱猿(うつぼさる)」として人間平等を訴えている

 また、皮革製品の場合、もう一つの特徴をみなくてはならない。今川氏が「革作り」に土地を与え皮革の上納を義務づけたのは、皮革が馬具や鎧など軍備に必要だったからである。これを年貢と同じに上納させるには農民や町人の斃牛馬所有が成り立ってはならない。部落はその技術を提供する労働者でなくてはならなかった。そのため、農民たちとの売買が成り立つのを禁じた。そしてこうした「お上」と部落の関係性が農民たちを規制していた。

 ここでは部落差別の観念的原理が明らかになっている。しかしそれはまた同時に、その解放、差別克服の契機でもあるだろう。というのは、ここで農民たちの主張が通っておれば、忌穢や触穢の観念が相対化され、すべての人がケガレに触れて生きること、あるいは近代的生産関係や商行為が忌穢や触穢観念を超克するのを証明するからだ。それはまた、先の警察機構やこの後みる「宗教的ケガレのキヨメ」も同じなのであるが、残念ながらそのような動きは定着しなかった。

 明治になって政府は斃牛馬の「勝手処置令」を出すが、これは西欧の軍事的大量生産の模倣であって、農民たちの主張からではなかった。その証拠に、その後各地で捨牛馬が増えて困ったのだ。

(3)宗教的ケガレのキヨメ

猿廻し・本来は馬の守り神として演じられた
▲猿廻し・本来は馬の守り神として演じられた

 この機能は二つの性格がある。一つは神社の祭りなどでのキヨメ(具体的にその場を掃除することと象徴的意味として注連縄(しめなわ)を張ったりする行為)と神輿の先導役である。

 もう一つは人々の家の門に立ってその家族の健康や繁栄を祝う芸能、祝福芸・門付芸を演じることである。万歳、大黒舞、春駒などがある。猿廻しもその一つである。

 ここにあるキヨメとはケガレとしての死や怪我、病など不幸な状態を克服し正常な状態に回帰することである。それを宗教的な願いとして言葉や踊りで象徴的に演じる。具体的ケガレのキヨメは具体的「死穢」などに触れ、それをケガレではない太鼓などの状態にリサイクルし日常の世界に回帰するが、それらは基本的に同じ発想の中にある。

 また警察機構も、犯罪者が不浄あるいはケガレとして人々が忌避していたため、部落の「役」になったのが警察史などでわかっている。

 これらは神社の祭りで唱えられる「祝詞(のりと)」にある「罪・ケガレを祓(はらい)キヨメ」に対応した具体性なのである(詳しくは拙書『部落文化・文明』参照)。

春駒・手駒ともいわれ「養蚕の神」として迎えられた
▲春駒・手駒ともいわれ「養蚕の神」として迎えられた

 このように、「宗教的ケガレのキヨメ」だけでなく、部落の社会的機能全体が歴史的意味での「キヨメ」に該当するのがわかる。この歴史を差別観だけでみると、ケガレに触れ、そのため触穢と忌穢観念による排除が目立つが、それを「キヨメ」に視点を置くと、それらはすべての人々の願いに通じるものであり、精神的、物質的、システム的に人々の生活に深く関係していたのがわかるのである。

2013.8掲載

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