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クローズアップ

京都教育大学教員 外川 正明
「差別は誰の問題か」〜いま改めて部落史を学ぶ意味を問う〜
(その1)

京都教育大学教員 外川 正明

●プロフィール

1955年  京都市生まれ
1978年 京都教育大学教育学科卒業後、京都市立小学校教員
「竹田の子守唄」の発祥地を校区に含む小学校で同和教育に取り組む
1993年 京都教育大学大学院修了
1996年 京都市総合教育センター研究課に勤務
現  在 京都教育大学教育実践総合センター教員
京都部落問題研究資料センター運営委員
NPO人権ネットワーク・ウェーブ21副理事長
ふしみ人権の集い実行委員会事務局
世界人権問題研究センター嘱託研究員
【主な論文】
「被差別部落の子どもの学力形成と家庭の教育力」
「部落史が私たちに問いかけるもの」
「学力保障としての部落史学習」
「人権教育の今後の展開に向けて」
「被差別部落の大学生に見られた進学達成要因」
【主な著書】
『部落史に学ぶー新たな見方・考え方にたった学習の展開』
(解放出版社)
『教育不平等—同和教育から問う「教育改革」』(解放出版社)

教科書記述は変わったが…

「士と農工商」
 幕府や大名は、農民や町人の下に、さらに低い身分を置き、他の身分と分断して支配しました。

「きびしい差別」
 農民や町人よりも低い身分に置かれた人たちは、世の中に必要であっても、人の好まないやくめを負わされ、職業も限られました。そして、住むには向かない場所に住まわされ、他の身分の人との交際も禁じられるなど、きびしく差別された生活をしいられました。
 これは、農民や町人に、世の中には自分たちより低いみじめな人々がいるのだから、少しぐらいの不平不満はがまんしようと思わせ、分断して支配するためと考えられています。これらの人々は、こうしたきびしい差別の中でも、農業をはじめさまざまな仕事をして負担分をおさめ、農村や町の人々にとって役立つ用具をつくるなどして生活し、社会をささえました。

▲T社1992年度版社会科教科書の記述

「人々のくらしと身分」
 また、百姓や町人とは別にきびしく差別されてきた身分の人々もいました。

「差別されてきた人々」
 百姓や町人とは別にきびしく差別されてきた身分の人々は、住む場所や身なりを百姓や町人から区別され、村や町の祭りへの参加をこばまれるなど、きびしい差別のもとにおかれ、幕府や藩も差別を強めました。
 これらの人々は、こうした差別の中でも、農業や手工業、芸能を営み、また治安などをになって、社会を支え、伝統的な文化を伝えました。

▲T社2005年度版社会科教科書の記述


 上記の文章は、いずれも全国で最も多く使われているT社の小学校六年生社会科教科書の記述です。読み比べて頂くだけで、記述が大きく変化していることに気づいていただけると思います。

 すでに、ひろげよう人権2005年8月号でも、上杉聰さんが部落史研究の深まりの中から、これまでの部落の歴史のとらえ方の誤りや、新しい見方・考え方について詳細にわたって述べておられますが、ここにあげたT社に限らず、全ての出版社の教科書からも、もはや「士農工商」という言葉は、一切消えていますし、「さらに低い身分」というとらえ方から、「差別されてきた人々」と記述されるなど、江戸時代の差別の有り様が、「社会の下」ではなく、「社会の外」と認識されていたことが、記述されるようになりました。

 加えて、中世の庭園造りを担った被差別民の存在や、杉田玄白らによる『解体新書』翻訳に貢献した「※虎松の祖父」のことなども全ての教科書に掲載されるようになりました。

 しかし、問題は「発見された新しい史実を教える」ことや「マイナスからプラスイメージへ」ということだけでいいのでしょうか。

※玄白たちの求めに応じて巧みな解剖をおこなった被差別部落の90歳の老人。『蘭学事始』に紹介されているが、「虎松の祖父」としか記されていない。

大学生との対話の中から

 私が、「部落史の見直し」や「再検討」という課題に出会い、学び直し始めた1990年代の半ば、大学生たちと部落問題について語り合う機会を得ました。

 約200人の受講生の中で、「部落問題を学んだことがない」という学生は、ほんの5人でした。かっては、「私は被差別部落のない地方で育ったので知りません」というのが「言い訳」として通用しましたが、1974年に全ての教科書に部落問題が記述されるようになり、全国の子どもたちが部落問題を学習していて当然のはずなのです。ですから、私はその5人の学生には、「部落問題を知らないというのは恥ずかしいことです。それはあなたの責任ではなく、あなたの担任の先生がきちんとした授業をしていなかったということです」と言いました。

 一方、残りの195人の学生たちは、何らかの形で、小・中・高と部落問題を学んできているのです。そこで、私はそうした学生たちに、「この5人の方たちに、部落問題とは何かを簡単に説明してください」と問いかけました。すると返ってきた答えは、一様に「部落問題とは、江戸時代に、穢多・非人身分にされた人々が、いまだに差別を受けている問題である」というものでした。

 果たして、これは、正解なのでしょうか。

 京都のある部落では、明治初めの人口は約1000人ですが、昭和の初めには約3000人になります。そして、戦後の1950年代には2900人、それが現在では、1200人です。それぞれ50年間で、3倍に増えて3分の1に減っています。これはどんどん子どもが増えて、どんどん人が亡くなっていったのでしょうか。

 奥田均さんが中心となって取り組まれた大阪の調査では、1990年から2000年までの10年間に、被差別部落から24000人の方が転出し、新たに部落外から9000人の方が流入してきていることが明らかにされています。被差別部落は、決して閉ざされた社会ではないのです。特に、近代以降、そして近年になるほど、激しい人口の流出入が起っています。これが、被差別部落の実際の姿です。部落問題というのは決して「血統」ではありません。

 そもそも、「血統」だとか、「家柄」「血筋」なんて言葉を持ち出すなら、私の親は2人いて、その親は4人いて、その親は8人いて、その親は16人、その親は32人となります。仮に一世代が20年から25年とすると、4〜500年前は、20代前となり、その数は2の20乗ですから、100万人を遙に超えます。私たち一人ひとりは、400年前の100万人の命を受け継いで、いまここに生きているのです。

 実際に「血統」とか「家柄」といった観念が強化されるのは、明治以降の戸籍制度によってもたらされたものです。

 20代前とはいいません、わずか3代前、一人ひとりには、8人の曾祖父と曾祖母がいます。その人たちが、どこで生まれ、どこで育ち、どんな人生を歩んだのか、全て知っている人などいないでしょう。ですから、私は学生に「部落の人々が、差別された人々の子孫であるなら、あなた達はいったい誰の子孫なのですか」と問い返しました。


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