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クローズアップ

見城 慶和「学ぶ楽しさ すばらしさ」〜生きる力を支え励ます学び〜(その1) - クローズアップ - ひろげよう人権

元東京都墨田区立文花中学校夜間学級教諭 見城 慶和

●プロフィール

1937年(昭和12)生まれ。
1961年(昭和36)から42年間都内の公立中学校夜間部に勤務。長年の実績が評価され、1999年(平成11)年に吉川英治文化賞受賞。山田洋次監督の映画『学校』(第1作)のモデルの一人。
2003年(平成15)定年退職後もなお、夜間中学生を中心とした学びの場「えんぴつの会」を運営している。
映画『こんばんは』の「夜間中学校の記録映画の製作を支える会」の代表世話人

◎著書
「夜間中学校の青春」(大月書房)

生徒さんたちの思い出

 私は、1961年(昭和36)に、大学を卒業するとすぐに東京の荒川区立第九中学校の夜間学級に勤めました。そこで初めて出会った生徒さんの1人に横山隆一(六期生)という人がいました。その彼が「こんばんは」という詩を書きました。

学校に来て「こんばんは」というと
みんなの返事がかえってくる。
その声を聞くと 今までの出来事が
よいことも わるいことも かなしいことも
みんな消えて 学校に来たよろこびで
いっぱいになってくる。

 こんなすてきな詩です。この詩には夜間中学に来た喜びが、もうはじけるような思いで綴られています。その喜びというのは、私が初めて夜間中学に勤務した42年前と、今も少しも変わらない。私が、最後の5年間を嘱託で勤務させてもらった墨田区の文花中学校で、記録映画「こんばんは」が作られたのですが、このドキュメント映画に登場している人物が、今どうしてるのかを少しお話します。

 まず、日本最高齢の中学生、河本辛鶴さん。2月17日が誕生日なので、まもなく94歳になります。昨年の3月20日に卒業しましたが、学校長の配慮で留年して、5年間勉強をしてもまだまだ足りなくて、聴講生として今も在学中です。正式な生徒ではありませんが、毎晩来ています。あの人は街のプールへ週4日くらい通って、今はドクターストップがかかって歩くだけですが、でも1000mくらい歩いてから学校に来るのです。ピカピカした顔をして学校に来るのですけども、そういう93歳の辛鶴さんと学校で出会えるだけでも、その日が非常に私たちにとっても尊い1日になるのですね。三浦隆さんと、「これから道楽をするから」と言って夜間中学にきた矢田部敏武さん。相当高齢ですね。矢田部さんの場合は77歳、三浦さんは74歳になると思うのですが、2人ともやっぱり聴講生です。中学だけでは足りないということで、私が退職してから週3日やっている勉強会「えんぴつの会」へも勉強に来ているのです。2時から4時までの勉強会、それが終わると夜間中学で5時半から9時10分までの勉強をしている。そんな勉強を今も続けています。

 それから緘黙だったしんちゃん、秋元伸一君ですが、私が退職した1昨年の4月に3年生になりました。学校ではまだやっと声が出せるくらいの状態なので、どうなることかと私も心配でした。

 ところが3年生になったその年は、彼は「榛名の移動教室」にも参加しましてね、そこで移動教室の施設の人たちと参加生徒が入園式というのをします。その時の司会を、なんとしんちゃんがやったそうです。それから、文化祭では「ぶちあわせ太鼓」といって、大きな太鼓を2人で向かい合って叩く。気持ちを合わせないと、相手の気迫に負ければ遅れてしまうというような、そういう太鼓ですが、それも見事に演奏しました。高校の入学試験には何回か落っこちましたが、ついに都立高校に見事合格して、今は昼間の高校に通って、テニス部で頑張っています。去年の同窓会にも来てくれて、ニコニコ輝いた顔で結構積極的に僕のほうに話し掛けてきてくれました。

 そんな風に変わるのですね。しんちゃんは小学校の低学年から不登校気味で、5年生くらいからほとんど学校に行っていない、行けないのですね。家でも母親としか口が利けない。だから夜間中学に来た時も一言も口が利けない。その彼が、みんなに聞こえるような声で教科書が読めるようになり、昼間の高校に行き、今は当たり前の高校生活をしているわけですね。だからそういう一人ひとりを見ていると、何が彼を自閉的な生活にまで追い込んでしまったのか。なぜ、何が彼をここまで自信を回復させたのだろうと、考えさせられることが多いです。

学びの場「えんぴつの会」

 私自身ですが、1昨年、2003年の3月31日で退職しました。東京都の決まりで、65を過ぎると嘱託も駄目で、本当に残念でした。私はその時二つのクラスを受け持っていたんですけども、しんちゃんのいた若い人たちのCクラスと、もう一つはそれよりもやや勉強が進んだDクラス。Dクラスの場合は生徒が7人だったのです。その生徒さんの平均年齢が66歳でした。だから教えている私よりも学んでいる生徒さんの平均年齢の方が上なのですよね。私よりも年配者がいっぱい勉強しているのに、私が42年も夜間中学で培ったノウハウは、まだまだ皆に役立つはずだから、このまま定年になるのは残念でたまらない。何とかなんないかなと思っていたら、統廃合で文花中学は、隣の吾嬬三中と一緒になって新校舎に移ったのです。映画に撮られている、私が定年まで勤めていたあの校舎が丸々空き家になった。これを使わないままにしておくのはもったいない、ここを利用させてもらおうということで、教育委員会にお願いしたら、勉強会に使うのならばということで、なんと教室も花壇も校庭も体育館も無償で借りられたのです。

 そんなことで私は「えんぴつの会」というのを週3日やっています。校舎の周りにぐるりと花壇を掘って、季節の花をちゃんと計画的に植えて、花が絶えない。それからジャガイモを作ったりサツマイモを作ったり、韓国の人はサンチェを作ったり、中国から来た人はシャンツァイを作ったり。自分の国の野菜がそこでできるから、その学校が、すごく自分の故郷みたいに身近なものに感じられるのですね。校舎の周りに花が咲いて、野菜もできて、さて今年は何を作るか、今から楽しみです。

 「えんぴつの会」は50人が登録していて、常時来る人は20人くらいです。80歳以上の人が6人います。中には学齢の不登校の子もいます。公立の夜間中学じゃないから入学制限はありません。勉強したい人は誰でも面倒みたい、教えたいという退職教員の仲間に呼びかけて、15人の人たちでチームを組んでやっています。

 私は1937年(昭和12)の生まれで、物心付いた時にはもう太平洋戦争まっただ中で、国民学校に入学して、2年生の8月15日が敗戦です。戦中戦後、もうないないづくしで鉛筆1本買えなかったのです。だから本当にギリギリまで使って、いよいよ持てなくなると、笹竹にさして使ったのですね。そんな風に使った鉛筆は捨てられないで、だから小学校や中学の時に使った鉛筆、高校の時に使った鉛筆を持っているのです。ある時、増田れい子さんが家に来てくださった時に「思い出の鉛筆で、捨てられなくて、持っているのですよ」って言ったら、「ちょっと貸してくださいね」と言って、私が高等学校の頃に使った鉛筆を一握り持っていかれて、それをすてきな写真にしてくださって、「鉛筆」というとってもすてきな随筆を添えて、「暮しの手帖」に載せてくださった。また、退職の時にこの鉛筆たちを見ていましたらね、どの1本1本もが、「お前のためにこんな短くなるまで働いてやったのに、お前はまだ私たちの働きに応えるだけの仕事をしてないじゃないか」と、僕に突き刺さってくるような気がして、そうだもっともっと良い仕事しなくては駄目だなと思って、「えんぴつの会」という名前にしました。

 学校を借りていますから、机とかチョークとかは沢山あるのですけど、肝心の電話も、印刷機も無い。それから大勢で使っていた学校ですから、今2、30人で使っていると、水道がたちまち淀んでしまって、夏なんか臭くなって飲料水に適さない。水も無いという、ちょっと辛い条件もあるのですけども、伸び伸びとね、本当に学びに来た人が、分かるまで学び合える、一番勉強したいことに直に答えられる。あーこれが本当の勉強だな。嘱託まで終わった私が、初めて本当の勉強、本当の授業じゃないかと、手ごたえを感じています。だから、こんなに幸せな勉強の場はありません。

次回に続く

学ぶ楽しさ すばらしさ
〜生きる力を支え励ます学び〜(その2)

  • 夜間中学校の変遷
  • 可能性を拓く夜間中学

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