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クローズアップ

成田 真由美
「自分の可能性を求めて」
(その1)

成田 真由美

●プロフィール

成田 真由美(なりた まゆみ)

1970年 川崎市に生まれる
1983年 13歳で脊髄炎発症、両下肢麻痺となる
1992年 軽い気持ちでチェアスキーを始め、スポーツに目覚める
1994年 12年振りに、両下肢麻痺後初めて泳ぐ
      「恐かった! 軽かった!」
1996年 アトランタパラリンピックに出場
      金2、銀2、銅1を獲得
2000年 シドニーパラリンピックに出場
      個人メドレー 世界新記録 金メダル
      200m自由形 世界新記録 金メダル
      50m平泳ぎ          銀メダル
      50mX4フリーリレー 世界新記録 金メダル
      50m背泳ぎ 大会新記録 金メダル
      100m自由形 世界新記録 金メダル
      50m自由形 世界新記録 金メダル

現在 アテネパラリンピックに向けて練習のかたわら、全国各地の企業、市町村、学校等からの要請を受けて、講演活動を展開している

(受賞)
1996年 厚生大臣表彰
      川崎市市民栄誉賞第1号
1997年 日本身体障害者スポーツ協会特別賞
2000年 総理大臣顕彰

障害を乗り越え明るく前向きに挑戦する源泉

 私は元々の性格が明るかったのです。皆さんの中にも社交的な方や内向的な方など様々いらっしゃるように、障害を持っていようといまいと関係なく元々の性格なのです、と私は思っています。

 それでも私は中途障害者なので確かに悩んで落ち込んで両親、医者、社会などに反発した時期もありました。その気持ちが何か劇的な体験によって180度ひっくり返っていきなり前向きになったわけではありません。

 ある日観戦に行った車椅子バスケット大会で激しくぶつかり合う選手が車椅子ごと倒れて、車椅子を持ち上げて悔しがるシーンを見たこと、ソウルパラリンピックをテレビ観戦した時感じたこと、そんな小さなきっかけを色々体験して少しずつ「車椅子に乗っていても成田真由美は成田真由美だ」という当たり前のことに気付いたのです。

幼少〜学生時代

 1970年8月27日、神奈川県川崎市にて生まれました。自分で言うのもなんですが明るく活発で、男子の中に女子が一人という感じでいつも遊んでいる子でした。放課後もずっと残って遊んでいたり・・・体育だけが(水泳以外)得意な子でした。

 中学一年生の時、膝の手術をしたのが始まりで、きっかけは分からないのですけど、そこからばい菌が入り、脊髄炎を発症。中学三年生から、約1年間ベットの上で寝たきりの生活が続きました。

 そのころは学校にもほとんど行くことができず、院内学級で勉強をしていました。週2回ボランティアで大学の人が勉強を教えに来てくれていましたが、自分の主治医の先生に勉強を教わったことを一番よく憶えています。その後、みんなとは1年遅れで高校に進学しましたが、その間も体の調子が大変悪くて、一時は2ヶ月間意識不明ということもありました。本当に学校での思い出は、中学校の途中から、ぷっつりと切れてしまっています。今でも思い出すことは、病気との葛藤のことだけです。高校も、大学も病院から通う日々が続きました。42度の熱が3ケ月続いて、一度は生死の間をさまよったこともありました。そのころはとてもスポーツをできる状態ではなかったと思います。

水泳との出会い

写真
(写真:共同通信社提供)
 22才の時、軽い気持でやったチェアースキーで、体を動かすことに少しずつ興味がでてきました。翌年、トレーニング仲間に出場選手がたりないからという理由で水泳を誘われ、12年ぶりにプールに入りました。それが大きなきっかけだったと思います。その時の感じは今でも覚えています。とても怖かったと言うことと同時に、いつも重たい体がすごく軽くなったと思いました。

 それから私は水泳を続けていくのですが、最初自分の中では、選手という意識はぜんぜん無く、自分にとって泳ぐことは楽しいことでした。初めて泳いでから1ヶ月後に「仙台に行けるから」という理由で試合に出場したのですが、なぜか25M自由形・50M自由形ともに大会新記録で優勝してしまいました。実際自分自身びっくりしましたが、そのころはまだ気持ちの中では「私泳げるんだ」ぐらいの感覚しかなかったと思います。

 試合で優勝し喜んだのもつかの間、帰路の東北道で追突事故に巻き込まれてしまいました。頚椎損傷となり左手に強度の麻痺、右手に軽度の麻痺が残り、5ヶ月入院、5ヶ月通院を余儀なくされました。もうその時は手も全然動かなかったので、口だけでどうやって生きていこうなどと思いました。すごく大きなショックでした。

選手としての自覚

 その後リハビリを続け、アトランタのサンピックを目指して泳ぎ出すのですが、その頃はまだトレーニングというよりも、ただ泳いでいたいだけだったと思います。実際プレパラリンピックに行く時も「初めて海外旅行に行ける」なんて感じだったのを覚えています。3種目に出場したのですが、3種目とも金メダルを獲得。それから、スイマーとして競技者として大きく自覚するようになってきました。

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(写真:共同通信社提供)
 そこで本格的に泳ぎ出すために、一般のスイミングスクールに行こうと思いましたが全部断られ、6件目でやっと今のコーチが引き受けてくれました。その時はもうアトランタまで10ヶ月しかありませんでした。その間は、鉄アレイを持っての訓練をやったり、チューブトレーニングをしたり、バケツを引っ張って泳いだり・・・本格的にトレーニングを始めました。結果的にアトランタでは金メダル2個・銀メダル2個・銅メダル1個を獲得しました。

シドニーパラリンピックに向けて

 アトランタパラリンピックが終わり帰国後は、取材や講演に追われ、約2年間あまり本気でトレーニングをやっていませんでした。そんな生活をしていた私にとって、大きな出来事がありました。長野で行われた冬季パラリンピックを観客として見に行っていたのです。開会式で選手が入場行進してくるのを見て、私の中にあった気持ちがふつふつと盛り上がってきました。“もう一度選手としてやっていこう。そしてシドニーをめざそう”と。長野からコーチに電話して“真由美だけど。シドニーめざすからヨロシク”とだけ伝えました。そこで大きな目標もできました。「シドニーで世界新記録を出す、自己記録を塗り替える」。そんな気持のあと、練習をがんばっていこうという気持になりました。再びハードなトレーニングを始めましたが、途中で両肩をこわしてしまったり・・・なかなかスムーズにことははこびませんでしたが、99年にシドニーで行われた世界大会に行く頃には調子も戻り、金4つ銅1つの好成績を収めることができました。

 ところが、昨年2月、もうひとつの病気が私を襲いました。子宮内筋腫です。でもそれを聞かされたときも、手術して切除してしまえば治るのならば、すぐにそうしようと思いました。自分の中でシドニーに向けての気持がすごく大きく、恐怖心とか、子供が産めなくなったらどうしようとか・・・そんな事を考えている余裕はどこにもありませんでした。母親も「嫁入り前の娘が・・・」なんて泣いてるんだけど、私はそれどころではありませんでした。手術の予定日も早めてもらい治療を急ぎました。その時は本当に人間は大きな目標があると強くなれるんだということを痛切に感じました。手術後も1ヶ月は安静にしてなくてはいけなかったのですが早くトレーニングしたくてしかたありませんでした。プールに戻ってからは、週2回の筋力トレーニングを週3回に増やしたり・・・今思うとその時は自分でもよくがんばったと思います。そうして、調整を重ね、私はなんとかシドニーパラリンピックに向かうことが出来ました。


次回に続く

「自分の可能性を求めて」(その2)
  • シドニーパラリンピックの思い出
  • 共生社会に向けて、健常者へのメッセージ
  • 考え方や接し方
  • 今後の夢

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