![]() |
|
|||||||||||||||||||
すでに、ひろげよう人権2005年8月号でも、上杉聰さんが部落史研究の深まりの中から、これまでの部落の歴史のとらえ方の誤りや、新しい見方・考え方について詳細にわたって述べておられますが、ここにあげたT社に限らず、全ての出版社の教科書からも、もはや「士農工商」という言葉は、一切消えていますし、「さらに低い身分」というとらえ方から、「差別されてきた人々」と記述されるなど、江戸時代の差別の有り様が、「社会の下」ではなく、「社会の外」と認識されていたことが、記述されるようになりました。 加えて、中世の庭園造りを担った被差別民の存在や、杉田玄白らによる『解体新書』翻訳に貢献した「※虎松の祖父」のことなども全ての教科書に掲載されるようになりました。 しかし、問題は「発見された新しい史実を教える」ことや「マイナスからプラスイメージへ」ということだけでいいのでしょうか。 ※玄白たちの求めに応じて巧みな解剖をおこなった被差別部落の90歳の老人。『蘭学事始』に紹介されているが、「虎松の祖父」としか記されていない。 |
|
私が、「部落史の見直し」や「再検討」という課題に出会い、学び直し始めた1990年代の半ば、大学生たちと部落問題について語り合う機会を得ました。 約200人の受講生の中で、「部落問題を学んだことがない」という学生は、ほんの5人でした。かっては、「私は被差別部落のない地方で育ったので知りません」というのが「言い訳」として通用しましたが、1974年に全ての教科書に部落問題が記述されるようになり、全国の子どもたちが部落問題を学習していて当然のはずなのです。ですから、私はその5人の学生には、「部落問題を知らないというのは恥ずかしいことです。それはあなたの責任ではなく、あなたの担任の先生がきちんとした授業をしていなかったということです」と言いました。 一方、残りの195人の学生たちは、何らかの形で、小・中・高と部落問題を学んできているのです。そこで、私はそうした学生たちに、「この5人の方たちに、部落問題とは何かを簡単に説明してください」と問いかけました。すると返ってきた答えは、一様に「部落問題とは、江戸時代に、穢多・非人身分にされた人々が、いまだに差別を受けている問題である」というものでした。 果たして、これは、正解なのでしょうか。 京都のある部落では、明治初めの人口は約1000人ですが、昭和の初めには約3000人になります。そして、戦後の1950年代には2900人、それが現在では、1200人です。それぞれ50年間で、3倍に増えて3分の1に減っています。これはどんどん子どもが増えて、どんどん人が亡くなっていったのでしょうか。 奥田均さんが中心となって取り組まれた大阪の調査では、1990年から2000年までの10年間に、被差別部落から24000人の方が転出し、新たに部落外から9000人の方が流入してきていることが明らかにされています。被差別部落は、決して閉ざされた社会ではないのです。特に、近代以降、そして近年になるほど、激しい人口の流出入が起っています。これが、被差別部落の実際の姿です。部落問題というのは決して「血統」ではありません。 そもそも、「血統」だとか、「家柄」「血筋」なんて言葉を持ち出すなら、私の親は2人いて、その親は4人いて、その親は8人いて、その親は16人、その親は32人となります。仮に一世代が20年から25年とすると、4〜500年前は、20代前となり、その数は2の20乗ですから、100万人を遙に超えます。私たち一人ひとりは、400年前の100万人の命を受け継いで、いまここに生きているのです。 実際に「血統」とか「家柄」といった観念が強化されるのは、明治以降の戸籍制度によってもたらされたものです。 20代前とはいいません、わずか3代前、一人ひとりには、8人の曾祖父と曾祖母がいます。その人たちが、どこで生まれ、どこで育ち、どんな人生を歩んだのか、全て知っている人などいないでしょう。ですから、私は学生に「部落の人々が、差別された人々の子孫であるなら、あなた達はいったい誰の子孫なのですか」と問い返しました。 |
|