人間の価値と生き方について(その2)


障害者にとっての最初の障害は親である

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 一般の人より一段下がったステージにいるような劣等感をもっていた。そんな私にとって恋人と結婚することには判断がつかなかった。今でこそ、テレビ、雑誌で車椅子の生活を知ることもでき、皆と違いのない夫婦関係で、自ら仕事を持ち経済的に自立をしている人を見るが、20年前はバリアフリーという言葉すらなく、車椅子の人がどのような人生をおくっているものか全く情報が入ってこなかった。良い希望をもてる例を知らなかったのだ。
  また残念なことに自立を遅らせる要因の一つとして、その障害者が一番最初に関わる病院の存在がある。20歳を過ぎた患者に対して、回りの人たち、特に病院関係者は子供のような接し方をすることだ。それをおかしいと感じ、反発できる正常な判断力があればいいが、体が病んでいる時には気持ちも病みがちです。‘子ども扱いをされる‘と、面白いことに、その役割を自然に演じてしまう。そして、子供のような半人前の私が結婚を望むのはまちがっているのではないか、と思うようになる。同様に年をとった親もまた、私が子供に戻ったかのように、あれこれ制限をつけてくる。心配で仕方ないのだろうが、愛情があるだけにより強引に前をふさぐ傾向にある。よく言われることとして、「障害者にとっての最初の障害は親である」
 もし、結婚せず、親と暮らしていたなら、私の人生は、今ほど、いろいろなチャレンジをしてこなかっただろう。親ならば、「危ないからやめたほうがいい」と止めていただろうし、私も親に甘えていたと思う。しかし、私は誰かの庇護の下にいるのではなく、一人の大人として、対等な気持ちで恋人と結婚するほうを選んだ。幸いにも彼は「一人の大人として自立ができる」と期待をしてくれた。そのチャンスをくれたことに感謝をしている。
親は過去から現在で、恋人は現在から未来だ。不安はいっぱいあったが、私は未来がほしかった。結婚前に恋人がこんなことを言った、その言葉で私は結婚しようと思った。「ひとみにとって僕が必要なのではなく、僕にとってひとみが必要なんだ」誰かこの世で私を必要と思ってくれる人がいる。それが肉親以外の他人が言ってくれる、このことがどれほど私を勇気つけてくれただろうか。
 現在の私たちは他の人と変わらない、ごく普通の夫婦である。ひとりっこの夫はかなりのわがままでもある。ある時、どうしても手の届かない高いところの窓を「今度の休みの日に拭いてね」というと、「デパートでT字のブラシがあったから、それを買ってきてあげるから自分でやったら」と。そして、けんかも対等にできることを幸せに思う。




障害がないひとの選民意識

 人と接していて、あまりいい気持ちのしない会話もある。夫ノブのことをほとんど知らない人から「いいご主人ね」と言われたり、結婚について「ご主人はよく思い切ったね」という言葉に悲しい気持ちになってしまう。
それは言外に「ハンディを持った女性と結婚したなんて偉い」という意識を感じてしまう。
もし私が車椅子生活になっていなければ言われなかっただろう。
 これは一般にはわかりにくいかもしれないが、受ける側は、微妙なニュアンスを敏感に感じ取ってしまうのだ。だから、いつも返事に困ってしまう。実は内心では「ノブは別の女性と結婚して失敗していたかもしれないし、私が他の男性と結婚して幸せになっていたかもしれない。それを<いいご主人がいたから幸せになれた>というのはヘンな気がする。「ふたりだから幸せなのに」と思っている。でも「いえ、ホントは、夫は意地悪なんですよ」などと言ったら、単なるひねくれ者になってしまう。それに確かに私にとっては世界一の夫なので「ええ、幸せです」と答えておくことにしているのだが・・・。

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 ノー天気な夫は、ただ自分が褒められていることが嬉しいらしく、妻の心の機微にまで思いを馳せない。世間的には優しい理解のある夫が車椅子の妻を包みこんでいて、その手の平で妻が精一杯の努力をしているというステレオタイプにしたいみたいだ。
 今、私はクイズミリオネアの取材を受けている。私の仕事には全く触れず、健気な障害者がオットのために食事を作り掃除をすることに喜びを感じ明るく生きている、という構成になりそうだ。現在では、たいていの障害者は就職をしているのだけれど、どうもマスコミは、障害者の認識に一歩も二歩も遅れているようだ。同情心を煽ることで視聴率をとれるなんて安直なことで、世間を侮れない。いつまでもその手は通用しないだろう。

 

次回に続く

人間の価値と生き方について(その3)
  • 人種差別
  • 最後に


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