人間の価値と生き方について(その1)

エッセイスト 鈴木 ひとみ(すずき ひとみ)
●プロフィール

1982年ミス・インターナショナル準日本代表「ミス・ネーション世界大会」でミス・エレガンスに選出
1984年ファッションモデルで活躍中、交通事故で頸椎を骨折
1985年鳥取県での身障者の国体に出場し、2種目(スラローム・60m)に大会記録で優勝
1986年結婚
1987年イギリスでの「国際ストーク・マンデビル競技大会(車椅子競技の世界大会)」で金メダル獲得。『車椅子の花嫁』テレビドラマ化
2002年世界射撃選手権ライフル競技に出場
2004年アテネパラリンピック日本代表で射撃に出場。現在は執筆・講演活動の他、洋服メーカーモデルとアドバイザー、企業のバリアフリーアドバイスなどを行っている

◎著書
「1年遅れたウェディングベル」日本テレビ出版
「気分は愛のスピードランナー」日本テレビ出版
「命をくれたキス」小学館 他

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あの日のこと

 今から21年前の夏、その日は、とても暑い日だった。モデルになって2年目の私は、朝9時から、甲府の桃園で撮影をしていた。ある脚立メーカーのポスターの仕事だった。撮影は順調に進んで、午後1時には終わってしまった。その後、東京を目指して車に乗り込んだ。運転はカメラマン、助手席には男性のデザイナー、私は後部座席で居眠りをしていた。31歳になったばかりのデザイナーは、もうすぐ誕生する第二子がおなかにいる妻と2歳の坊やにおみやげにしたいと、もらった大きな桃が、2つ。いい香りが車中に広がっていた。
 「ああ、私も早く東京に帰りたい・・・」私には当時、3年の交際を経て、3週間後には結納を控えている婚約者のノブがいた。そんなことを思いながら外の景色に目をやると、さっきまで晴れていた空が急に黒い雲に覆われ、ガラス窓に大きな雨滴がポタリと貼りついた。そのまま雨脚はどんどん激しくなりワイパーが水をかき分ける速度も上がっていく。大月インターから入り、トンネルを抜けた直後だ。私たちを乗せた車が突然グルグルと回りだした。そのまま回転は止まらず、どんどん激しくなって、自分がどんな体勢になっているのかわからなくなった。
 私の耳に最後に聞こえたのは「あーっ!」という悲鳴に近い大きな声だった。あれはいったい誰の声だったのだろう。もしかすると、私自身の声だったのかもしれない。
 後日、事故の詳しい様子を知った。私たちの車は激しい雨の中を相当のスピードで走っていたらしい。たまたま横を走っていたトラックが路面の水を大きくはね上げ、そのしぶきを避けようとして、急ブレーキを踏んだ。そのとたん、車が大きくスリップし、路面を回りだした。ぐるぐると回り続け、その最中に助手席のドアが開いて、デザイナーは外に投げ出された。そして全身打撲で亡くなった。私は後部の窓ガラスを突き破り、はるか100メートル先に放り出されて路面にたたきつけられた。私がどこにいるのか分からず、軽症の運転手はあたりを探し回ったらしい。一見して外傷のなかった私を抱きかかえ、他の車を止めて救急病院へ運んだという。
 しかし、私の怪我は見た目の軽さとは裏腹に頚髄を損傷して、そのときは危篤状態にあった。1984年8月2日。私の運命は自分自身の知らないところで、その日を境に変わっていくことになった。




命をくれたキス

 恋人のノブが救急病院に駆けつけた。顔が膨れあがって、頭を刈り上げられた私を目の前にみてもそれが本人であるとは、わからなったという。いろいろな事故の救急で運ばれた人たち4人がいたが、翌日まで生きていたのは私だけだった。日付が1日変わり、より設備の整った病院へ移されることになった。ノブは救急車に同乗して、手をずっと握りしめていたらしい。私は意識が朦朧として覚えていないが、ときおり目を覚ましては泣いていたそうだ。その涙が点滴と同じ黄色い涙だったという。
  国立村山病院に着くとすぐに手術室へ運ばれた。ストレッチャーで運ばれ、手術室のドアが開こうとした瞬間だった。朦朧とした意識の中、私の唇にふっと柔らかい皮膚が触れた気がした。かすかな吐息がかかり、それが必死に何かを伝えようとしている。数秒間・・。彼のキスの温かさが私の動かない体の細胞1つ1つに伝わって「生きろ」と言ってくれているようだ。
 危篤から脱した10日後、主治医がやってきて告げた。二度と私の脚は動かないだろう。上半身にも障害が残ること。切れてしまった神経は今の医学ではつなぐことができないこと。

 

人間としての価値が落ちた

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 それからの私は「どうやって死ねるだろうか」ということばかりを考えていた。後にこのときの心理を分析すると「足が動かないイコール死にたい」ではないのだ。足が動かないことによって、誰からも必要とされなくなったに違いない、半人前の人間なのだ。だから人間としての価値が落ちた、と自分を卑下する。それが死を結びつけた。
 頭では「人としての価値は社会的地位や体の障害、性別、年齢、生まれた場所によってかわるものではない」と思うように、と努力をしていたが、本当の心の奥底からその自信があるのか、というと、違っていたと思う。そのことに長く苦しみ、自分ですら本心に気づかないフリをしていた。
 その後の経験や周りの車椅子の人たちを観察すると障害を受け入れるのに4つの段階がある。
一段階目 なぜ自分がこんな目に遭うのだろうか、過去に何か悪い行いをした報いだろうか、と自分を責める、絶望する。
ニ段階目 自分の悪い因縁のセイではないが、この運命への怒りと絶望に揺れ動きながら、気持ちは打ちのめされたままである。
三段階目 今の自分を受け入れる。がんばってリハビリをするし、仕事も復帰する。
たとえ、障害はあっても、それ以外の部分では普通の人と変わりないように見える。
でも心の奥底では劣等感を拭い去れない。それを本人ですら気づいていない場合が多い。
四段階目 本当の意味で障害を受け入れている。そして、誰よりも価値が高いわけでもなく、低いわけでもない、と真の強さを認識できる。
 案外三段階目で留まったままの人が多く、そのまま寿命を迎える場合もある。これは体の障害に関わらず一般の人ですら、四段階目へ行っていない場合もあるかもしれない。私自身、長く三段階目に留まっていて、うっすら霞がかかったような晴れ晴れしない気持ちであった。
 私はニ段階から三段階への移行は割合、スムーズにいった気がする。

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次回に続く

人間の価値と生き方について(その2)
  • 障害者にとっての最初の障害は親である
  • 障害がないひとの選民意識


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