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現在、卒業証書は、不登校でほとんど学校に行けなくても、義務教育では留年があってはならないという建て前から、全員に出すことになっているのですね。ですから一旦卒業証書をもらってしまうと公立の夜間中学には入れないということで、不登校の子どもは極端に少なくなっています。一時は荒川区立第九中学校の夜間部では、全体の7割を超える生徒が昼間の学校で不登校でした。それは1980年、81年(昭和55、56)頃ですね。
資料に清田順子さんの体験発表の作文がありますが、夜間中学で1年半勉強した後、地域の体験発表会で発表したのがこの作文です。清田さんは、13年前の山田洋次さんの映画「学校」に、不登校で夜間中学に来ているエリコという女性が出てくるのですが、そのモデルになった一人なのです。
前向きの心で 3年Dクラス 清田順子
この間、小学校の時の卒業作文を読みかえしてみて、少し驚いた事がありました。私自身、全く覚えていなかったのだけれど、そこには「私にとって先生はとても遠い存在だった」と書かれていたのです。
みんなは「よくおこられたけど、先生は大好き」とか「先生ごめんね」なんて書いているのに。
小学校の頃、私は地味な子供でした。「先生、先生」と言って先生にまとわりつく子達を見ながら、いつも教室の隅で本を読んでいた事をおぼえています。
私は、先生があまり好きではありませんでした。40数人いるクラスの中で、先生に存在を認めてもらえる子は、ひとつでも人より優れたものを持っている子です。でも私は何ひとつ優れたものを持っていませんでした。ピアノ、成績、作文・・・いつでも上には上がいて、私は中途はんぱだったのです。
私なんか何もできないんだ。私なんか、誰にも認めてもらえないんだ。私なんか、学校じゃ必要ないんだ・・・先生に認めてもらえなかった私の心の中には、だんだんそんな思いが積ってゆきました。そして中学校に入り友達すらいなくなってしまった時、私は学校に行かなくなってしまいました。
学校を休んでいる間は、私はほとんど犯罪者でした。外出する時も人目を避け、家にいる時は部屋にこもりっぱなし。妹からは「おねえちゃんは学校いかないくせに」と言われ、両親の態度もだんだん変わってきて、何度、死んでしまおうと思ったかわからない程、私の心は荒んでいきました。
学校の事は、忘れたつもりでも、夢の中にでてきます。私は「やった!やっと学校に行けるようになったんだ。よかったなぁ」と思ったところで目が覚めてしまい、そうだ、今のは夢なんだぁと気がつき、思わず、泣いてしまったりもしました。
ある日の事、夜おそくに、私は父にテレビを見せられました。それは夜間中学校のドキュメントでした。どんな内容だったのか、それを見てどんな感想を持ったのか、今では全くおぼえていません。けれど、ひとつだけ鮮明に覚えていること・・・それは、その番組を見ていると、何故か涙が止まらなかった事です。私はとなりで見ている父に気づかれないように、声を殺し、涙だけをポロポロ流していました。その時はまだ、自分がそこに加わって一緒に勉強したりする事は考えられなくて、まるで別世界を見ているようでした。
そして、今。私は荒川九中の二部に通っています。昨年の4月6日から今日までの1年半、私は1日も休まず通っています。今までの私からは、とても考えられない事ですが。
はじめ、二部を見学した時は、あまりに人数が少ないのと授業がカンタンなのに、びっくりしました。そして自分自身入学してみてその自由さに驚きました。
宿題なんてほとんどでないし、授業もカタくるしくないし。でも一番驚いたのが、先生がまるで友達みたいだった事でした。そして先生は、生徒一人ひとり、全員を認めてくれるのです。みんなのいい所も悪いところもみんなひっくるめて。
学校は、息苦しく、きゅうくつで、イヤな所だと思っていたのに、いつのまにか私は、学校へ行く事が楽しみになっていました。まるで、はじめて学校へ行くようになった小学校1年生のようでした。
生徒会の書記や、クラブの部長をやらせてもらったり、今、こうしてここで九中二部の代表として弁論大会に出させてもらったり、昔の私からは考えられないような事ですが、そんな事をしているうちに、私なんか、という思いは、いつのまにか消えてゆき、代わりに、私だって、と思えるようにもなりました。
私は九中二部で、いろんな人と出逢いました。私の事を大切にしてくれる友達や、認めてくれる先生がいて、とても幸福だと思います。九中二部に出逢わなかったら、私はどうなっていたか、今考えるとぞっとします。あのまま、荒んだ心で、生きていたら・・・。
あと半年で、私の長かった中学生活も終わりを告げます。私は沢山の人に支えられてやっと卒業させてもらえるのだと思います。二部の先生やみんな、そして昼間部のみなさんにも、ずいぶん励ましてもらいました。これからは、年の事やなにかで、つらい思いをすると思います。
でも、ハンデをハンデだなんて思わないで、まっすぐ前を見て歩いて行きます。 |
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こんなすてきな体験発表をしてくれている彼女が、夜間中学に来たばかりの頃は、人間不信・自信喪失で本当に貝のように黙っていて、しかもすぐ傷ついてしまうのですね。たった10人ぐらいのクラスで、学級委員の選挙なんかをすると、誰一人清田さんを選ばない。そうすると、それで傷ついてしまって、もう選挙が終わってもずっと泣いている。机に突っ伏してなかなか顔を上げない。帰る時間になっても泣いている。
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そんな彼女を、私は大丈夫だなと思った出来事があります。それは国語の時間に石川啄木の「一握の砂」とか「悲しき玩具」を読んで、一番惹かれる詩を選んで簡単な感想を書くという勉強をしたことがありますが、その時、清田さんは、「とかくして家を出づれば日光のあたたかさあり息ふかく吸ふ」というところが一番良いと書いたのです。ではそれを真似て自分の気持ちを書いてみよう、と言ったら「暖かき光を浴びて輝ける菜の花畑を渡るそよ風」というふうに表現したのです。
夜間中学に来るまでは、花が咲いたって春が来たって嬉しくない。私はもう人と話すこともない。私の人生にはもう二度と笑うなんてことはない。かたくなに自分に閉じこもっていた彼女が夜間中学に来て、春っていいなあ、頬をなでる風はなんて気持ちが良いのだろう。そんな思いが出せるようになった、これでもう大丈夫だなと思ったのです。
清田さんは夜間中学を卒業すると2歳年下の妹と同じように昼間の高校へ行き、1日も休まないで、皆勤で卒業したのです。卒業した日に私に手紙をくれたのです。今日もその手紙持っていますけれども、手紙の最後に「もう私は、後ろを振り返らなくても、自分らしく生きていけると思います」と書いてあったのです。それを読んだ時、私は胸がいっぱいになりました。
清田さんはエリートサラリーマンのお嬢さんで、中学までに6回も父親の転勤の度毎に転校していたのですね。それが、友達ができない、不登校になる一番の要因だったと思うのです。不登校になった頃は「どうせ私なんか」という思いだったのでしょうね。
夜間中学で学ぶうちに「私だって」という自信を取り戻して、高校卒業する時には、もう人と比べてどうのじゃなくて、私は私で良いのだ、肩肘張らずに私らしく生きていけば良いのだ、とその本来の輝きを取り戻している。その成長をずうっと振り返って見るとね、もうなんていって良いか、胸が詰まります。
今、子どもたちは小学校に入る時はランドセルを背負ってスキップをして学校に行きますが、1学期、2学期と過ごすうちに、だんだん顔色が冴えなくなって、2年、3年、4年と学年を追って不登校が増えていく。年に13万人を超える小中学校の不登校・学校嫌いが出てきてしまう。学校を拒否しているわけですね。年度を追って子供たちから拒否されるような学校というのは、いったいなんなのでしょうね。
13万人を超える不登校者の小中学校、11万人を超える退学者の高校、それから競争の大学。今の子供たちは思いっ切り遊ぶという、そういう経験がない。思いっ切り遊ぼうにも広場がない、遊ぶ時間もない。本当に幸せな子供時代が保証されないで、どんな幸せな大人になるっていうのでしょう。何か空恐ろしくなるそんな思いがします。
東京の教育が危ないと新聞の社説にまで書かれるような、今すさまじい状況が進行している。教育は、教育基本法第1条にきちんと規定されている「教育は人格の形成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」、学校はそこに収斂されなければいけないと思います。そうした意味で、夜間中学は自分の可能性を拓いていくという、そういう不思議な教育力をもった教育基本法の精神に合った学校だと思います。
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