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ひょっとすると、「老人虐待」は大きな社会問題なのではないか。そう思いはじめたのは、お恥ずかしいが、自分の母親が病んでからであった。それまでの私は、鈍感な人間で、そのことに気がついていなかった。 母は、腰痛が原因で寝たきりになり、七年病んだ。そして、二年余り前、大阪で亡くなった。九十二歳だった。私は三人きょうだいの長女だ。実家は大阪にある。サンケイ新聞の記者だった私は、会社の都合で二十代の終わりに大阪から東京へ転勤した。以来ずっと東京暮らしである。大阪で、最後まで母親と暮らしたのは、長男で、一人息子の私の弟。そしてその家族だった。べつに、私がそういう暮らし方を望んだわけではない。明治生まれの両親は、家制度意識が抜けなくて、親は長男と一緒に暮らすものと思い込んでいたようだ。 しかし、弟は団塊世代。その妻と、姑である私の母とでは、年齢差が四十一歳もある。そういう二人の意見が合うわけはない。当然のこととして、二人は犬猿の仲であった。それはどちらが悪いという問題ではない。当たり前のことなのだ。食べ物一つとっても、好きなテレビの番組をとっても、「食べ残しを、捨てるか、捨てないか」という考え方一つにしても、明治と昭和戦後派では、意見が違って当然である。 しかし、双方、聡明に、ニアミスを避けて暮らせた間はよかった。母が病み、ニアミスばかりの日々になった時、問題は、顕在化してきた。そして七年。この戦いは、はじめから勝負が決まっている。母が弟の妻であるT子さんに全面降伏していくプロセスが、同時に母の〃死への道のり″であった。その道半ばのころ、私はよくT子さんに電話をかけた。 こんな問答もあった。 |
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ちょうどその頃から、私は「子どもの世話にならずに死ぬ方法」というテーマで、本を書こうと思いはじめた。子どもやその配偶者に迷惑をかけまくって死ぬのではなく、自分で稼いだ金は自分で上手に使い、施設を利用し、おむつは、実子やその配偶者ではなく、プロの人に、お金を払って替えてもらう。 まず最初に行ったのは、グループホームだった。グループホームとは、介護保険が使える施設だ。九人を上限として、認知症の老人が職員につき添われて共同生活をする。最小単位の老人ホームといってもいい。そこで知ったのが、本格的な老人虐待だった。 Aさんは九十四歳。医師の妻だったが、夫が亡くなり、やがて一人息子も亡くなり、その嫁と孫の三人暮らしになった。 ある日嫁から「ちぎり絵を教えてくれるいいところがあるから、お母さまをお連れしましょう」とドライブに誘われた。 Bさんは、養子の息子から、意図的に棄てられた。彼女は認知症ではなかったから、死の二年前、自宅を処分し、自らの意思でグループホームに入った。危篤になっても、死んでも、葬式の日にも、息子は来なかった。息子が来たのは、Bさんの死後三か月経ってから。遺留分の金を弁護士から受け取るためだった。遺言状で、残った金をホームに寄付したBさん。彼女の仏壇は、いまもホームにある。毎日ホームの職員の手で新しい花がそなえられている。 |
なるほど、“棄老”というのはこの事か。“姥捨”は、平成の世にも、山のようにある。殴る、蹴る、殺すと同じ、あるいはそれ以上の老人虐待だ。やっとそのことに気がついたのが、これまたお恥ずかしいが、四、五年前のことだった。 ある日、大阪の実家のそばの病院に行くと、母が、片手と片足をベッドに縛られている。 二〇〇五年二月、石川県のグループホームで、二十八歳の青年が八十四歳の女性を殺した事件があった。何が原因かはわからないが、ストーブを女性の体に押しつけ、やけどによるショック死をさせたという。 その少し前には、ホームに入っている老人の爪をはがしていじめた女子職員もいた。家に居ても虐待され、病院へ行っても、施設に居ても虐待されるのなら、老人はいったいどこへ行けばよいのか。
いま私は、懸案の「子どもの世話にならずに死ぬ方法」(仮題)という本を書いている最中だが、最近やっと知ったことがある。それは、T子さんに、母の症状の変化を取材していた時のことだ。 私は母のその言葉を忘れない。T子さんがよくいっていた。なんて悲しい言葉だろう。そう思って、私も聞いていた。 |
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