共生社会の実現に向けて 〜オールド・イズ・ワンダフル〜(その1)

作家・陶芸家 俵 萠子(たわら もえこ)
●プロフィール

大阪市出身、大阪外語大学フランス語学科卒業
1953年 産経新聞記者
1965年 女性・家庭・教育問題を中心にした社会評論家および作家、
     また陶芸家として活動中
1981年 日本初の準公選で東京都中野区教育委員を努める(4年間)
1995年 俵萠子美術館 館長
2001年 がん患者の会「1・2・3で温泉に入る会代表」

主な著書
「人生に定年はない」(海竜社)
「命を輝かせて生きる」(海竜社)
「癌と私の共同生活」(海竜社)
「生きることは始めること」(海竜社)
「六十代の幸せ」(海竜社)、他 60冊

写真


はじめに

写真

▲ 東広島市の高齢者自立支援塾「夢創庵」のオープニングにて

 ひょっとすると、「老人虐待」は大きな社会問題なのではないか。そう思いはじめたのは、お恥ずかしいが、自分の母親が病んでからであった。それまでの私は、鈍感な人間で、そのことに気がついていなかった。 母は、腰痛が原因で寝たきりになり、七年病んだ。そして、二年余り前、大阪で亡くなった。九十二歳だった。私は三人きょうだいの長女だ。実家は大阪にある。サンケイ新聞の記者だった私は、会社の都合で二十代の終わりに大阪から東京へ転勤した。以来ずっと東京暮らしである。大阪で、最後まで母親と暮らしたのは、長男で、一人息子の私の弟。そしてその家族だった。べつに、私がそういう暮らし方を望んだわけではない。明治生まれの両親は、家制度意識が抜けなくて、親は長男と一緒に暮らすものと思い込んでいたようだ。

 しかし、弟は団塊世代。その妻と、姑である私の母とでは、年齢差が四十一歳もある。そういう二人の意見が合うわけはない。当然のこととして、二人は犬猿の仲であった。それはどちらが悪いという問題ではない。当たり前のことなのだ。食べ物一つとっても、好きなテレビの番組をとっても、「食べ残しを、捨てるか、捨てないか」という考え方一つにしても、明治と昭和戦後派では、意見が違って当然である。

 しかし、双方、聡明に、ニアミスを避けて暮らせた間はよかった。母が病み、ニアミスばかりの日々になった時、問題は、顕在化してきた。そして七年。この戦いは、はじめから勝負が決まっている。母が弟の妻であるT子さんに全面降伏していくプロセスが、同時に母の〃死への道のり″であった。その道半ばのころ、私はよくT子さんに電話をかけた。
「おかあさん、どう?」 
私はいつも同じ挨拶だ。T子さんの答えはまちまち。
「最近、気分はよさそうやね。〃食欲が無いし食べられへん″っていうわりには、すごい食欲。あきれるほど、よう食べはるわ」
「ふーん。それは、よかった!」
相鎚を打ちながら、しかし何だか私は面白くない。
何も〃あきれるほど、よう食べる″と言わなくてもいいじゃないか。私のひがみかも知れないけれど、そのあとに(この調子じゃ、なかなか死にそうにもない)と続くのではないか。そう思ってしまうのだ。

 こんな問答もあった。
「おかあさん、どう?」
「あのネ、おかあさん。腰が痛くて、歩けない、歩けない、というのに、冷蔵庫にだけは行けるみたい。勝手に行って、中のもの食べてはる。食べてるくせに、私には食べてないっていいはるけれど…」
認知症が出ている母だから、きっとそんな場面があるのだろう。そう思いつつも、娘の私は面白くない。 
そのうちT子さんから「お母さん。ものすごい食欲!」と聞くこと自体、私は辛くなってしまった。そのころだった。私が「言葉の老人虐待」というものがあるのではないかと思いはじめたのは…




グループホームの取材にて

 ちょうどその頃から、私は「子どもの世話にならずに死ぬ方法」というテーマで、本を書こうと思いはじめた。子どもやその配偶者に迷惑をかけまくって死ぬのではなく、自分で稼いだ金は自分で上手に使い、施設を利用し、おむつは、実子やその配偶者ではなく、プロの人に、お金を払って替えてもらう。
(よう、まァ、食べはるわ。この分では、当分死にそうもないわ。どないしよう?)
などといわれないで病みたい。痛切にそう思うようになったからだ。手当り次第、さまざまな老人施設を取材しはじめた。

 まず最初に行ったのは、グループホームだった。グループホームとは、介護保険が使える施設だ。九人を上限として、認知症の老人が職員につき添われて共同生活をする。最小単位の老人ホームといってもいい。そこで知ったのが、本格的な老人虐待だった。

 Aさんは九十四歳。医師の妻だったが、夫が亡くなり、やがて一人息子も亡くなり、その嫁と孫の三人暮らしになった。 ある日嫁から「ちぎり絵を教えてくれるいいところがあるから、お母さまをお連れしましょう」とドライブに誘われた。
そしてそのまま、グループホームに置き去りにされた。年金も、通帳も、嫁に押さえられている。ホームとの契約は、嫁が判を押しているから、Aさんは自宅に帰ることが出来ない。Aさんは、認知症ではないといい張るが、嫁はAさんを認知症だという。Aさんと一時間も話していた私は、どちらのいい分が正しいのか、結局最後までわからなかった。つまりかりにAさんが認知症だとしても、その程度の症状でしかないということだ。 

 Bさんは、養子の息子から、意図的に棄てられた。彼女は認知症ではなかったから、死の二年前、自宅を処分し、自らの意思でグループホームに入った。危篤になっても、死んでも、葬式の日にも、息子は来なかった。息子が来たのは、Bさんの死後三か月経ってから。遺留分の金を弁護士から受け取るためだった。遺言状で、残った金をホームに寄付したBさん。彼女の仏壇は、いまもホームにある。毎日ホームの職員の手で新しい花がそなえられている。

 

母の笑顔が…

写真

▲ 栃木県佐野市民大学で「人生に定年はない」を講演する筆者(左)と聴講風景(右

 なるほど、“棄老”というのはこの事か。“姥捨”は、平成の世にも、山のようにある。殴る、蹴る、殺すと同じ、あるいはそれ以上の老人虐待だ。やっとそのことに気がついたのが、これまたお恥ずかしいが、四、五年前のことだった。
そのころ、大阪へ母の見舞いに行くと、母は自宅ではなく、病院に居ることがふえていた。点滴治療が必要な情況が多くなったからだ。

 ある日、大阪の実家のそばの病院に行くと、母が、片手と片足をベッドに縛られている。
「こうやっとかんと、お母さまが、点滴の管を抜かはるんやて・・・」
嫁のT子さんが教えてくれた。
それは、あまりにも可哀そうな姿だった。
金を払って、病院へ入れて、なぜ縛られるのか。縛ってもらうために、金を払っているんだろうか・・・・。そう思うのは、病院の立場(?)を理解していないことになるのだろうか。最近やっと「縛らない介護」を主張する声が、プロの間にも出はじめた。遅すぎるんじゃないか。“縛る”のも、患者のためだ・・・・・といって一線を越えたら、歯止めの効かないことになりはしないか。

 二〇〇五年二月、石川県のグループホームで、二十八歳の青年が八十四歳の女性を殺した事件があった。何が原因かはわからないが、ストーブを女性の体に押しつけ、やけどによるショック死をさせたという。

 その少し前には、ホームに入っている老人の爪をはがしていじめた女子職員もいた。家に居ても虐待され、病院へ行っても、施設に居ても虐待されるのなら、老人はいったいどこへ行けばよいのか。

写真

▲ 聴講者へのサイン会

 いま私は、懸案の「子どもの世話にならずに死ぬ方法」(仮題)という本を書いている最中だが、最近やっと知ったことがある。それは、T子さんに、母の症状の変化を取材していた時のことだ。
「お母さんはネ、晩年は、よく肺炎を起こしたけど、入院をいやがらはって、困った」 
とT子さんがいう。
「うん、あなた、よくそういってたね。“さァ、入院しよう”というと、首を横に振って“早く死なせて・・・”と母がいう・・・」

 私は母のその言葉を忘れない。T子さんがよくいっていた。なんて悲しい言葉だろう。そう思って、私も聞いていた。
「そのあとに、こう続くんです。“私は、もう縛られるのはイヤや”」
とT子さんがいった時、私はさらに深く、母が“早く死なせて”といった意味を理解したのだった。認知症のせいか、ほとんど表情も、言葉も無くなっていた母だが、やっぱりそう思っていたのか・・・。いや、私の見たところ、縛られる度に、母の顔から“表情”というものが消えていったように思う。

 

次回に続く

共生社会の実現に向けて
〜オールド・イズ・ワンダフル〜(その2)
  • 高齢者虐待の実態

  • 終わりに


  •