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| 「人を屠る」ことをした武士が、「屠児」と呼ばれながらも穢多とは呼ばれなかった事実の中に、ケガレとは何かを解くカギが隠されてあるらしい。 2004年6月号の、人権の広場に掲載の「東北から見た部落差別【下】(その1)」で赤坂憲雄さんが、次のようなことをおっしゃっている。「穢れとされてきたものには、大きくいって三種類ある。死の穢れ、産や月経にまつわる血の穢れ、そして、皮革や肉食の穢れである。……これらの穢れが錯綜しつつ織りなす精神史的な景観のなかで、とりわけ、第三の皮革や肉食にかかわる差別の根底に横たわるものが、核心的なテーマとなるはずである。」 「皮革や肉食の穢れ」について筆者が拙著『ケガレ意識と部落差別を考える』で書いたのも、この「皮と肉の穢れ」、とりわけ「皮剥ぎ」ということに関してだったのだが、ここでは当時そこに書くことのできなかった事々をも含め、紙幅の許す範囲で書かせて戴きたいと思う。 13世紀末成立の『塵袋(チリブクロ)』(鎌倉時代の辞典)が
としていることがある。 シシムラとは肉の塊。「イキ物ヲ殺テウル」のウルも、「肉を得る」ないしは「肉を売る」ことを指しているはずだから、エタ(穢多)はもうその成立の当初から、他の人々によって肉食を軸として捉(トラ)えられていたということが分かるのだ。 『塵袋』と同じ時期に成立した『天狗草紙』にも、鳥肉を販いでいるらしい穢多の姿が描かれているが、その同じ『天狗草紙』に河原で「革」を天日干しにしている穢多の姿もまた描かれている。いったい、穢多と肉と革(皮)はなぜ不可分なのか。 ところで、このことは、永く疑問に思うことすら許されてこなかった。「穢多身分は江戸幕藩体制によって作られた。政治起源説以外の起源説はすべて誤りで、職業差別が先にあったのでは決してない」とも言われつづけた。ほんとうに、そうなのか。「今日からおまえは穢多になれ!」と命じられて「へい、さようで」とか、「へー、あいつ今日から穢多なのか。なら、差別してやろう!」とか、そんなことはあり得るはずもなかった。 万が一それがあり得たとしても、なぜそれが「穢多」でなければならなかったのか、そこが解かれなければならなかったはずなのだ。 |
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目をヨーロッパ、それもドイツの中世に転じてみる。阿部謹也さん(元一橋大学学長)がその著『刑吏の社会史』の中で次のようなことを言っておられる。 ドイツの皮剥、インドの皮剥、日本の皮剥、いったい皮剥たちが洋の東西を問わずにケガレとされ、かつ差別され排除されなければならなかったのは何故なのか。 |
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ケガレを意味する「穢」という漢字自体も、稲や穀物を意味する「禾(カ)」という字と、稲・麦などの「実り」を意味する「歳(サイ)」という字によってなっているが、ただしこれは意味が逆転している。 以上がかつて筆者が拙著において展開したケガレに関する語源論的アプローチの、ほんの少しの紹介なのだが、こうした解釈は漢字文化圏において得られるのみといわれればそれまでのことだったのかも知れない。ただこれを農耕と牧畜の角逐(カクチク)関係に置き換えてみることも可能だと、私は今もなお思っている。いずれにせよ、より支配的な農耕文化が狩猟ないし牧畜文化を排除しようとしたところに、「肉と皮のケガレ」などといった観念が成立する基盤があったと考えられるのだ。 ところで前出の阿部謹也さんによれば、刑吏も「19世紀には賤民としての地位は消滅し、…刑吏という苗字をもっていたとしても現在では公的にも私的にもヨーロッパでは何ら障害(差別)はない」という。 我が国においてもそれと同じ19世紀(1871年)に、穢多の称が廃された。にもかかわらず我が国には部落差別が今もなおあり、インドには不可触民に対する差別が今なお牢固としてある。何故なのか。 |
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