人権の広場


東北から見た部落差別(上)(その2) 東北芸術工科大学 教授 赤坂 憲雄

東北のフィールドワークから

 はじめに、東北からは被差別部落がどのように見えるのか。

 東北をフィールドとするようになって間もなく、わたしはそこに、差別の影が稀薄であることに気付いた。東北には、中世以前、身分や職業にかかわる差別の制度が存在しなかったことも知った。その社会的な背景について、被差別部落史の研究者が、それは東北が遅れた後進地域であったからだと、じつに無雑作に言い放つのを眼にしたとき、わたしはその鈍感さに憤りを覚えた。はたして、それは「遅れ」に還元できるものなのか。そうではなく、そこには差別と穢れをめぐる、列島の東/西の文化的な断層こそが横たわっているのではないか。漠然とした予感だけがあった。

 わたしは聞き書きのために、東北の村や町を歩きつづけてきた。たとえば、山形県内にはかつて、いくつかの箕作りのムラ=部落(――東北ではいまも、「部落」は集落を意味する日常語にすぎない)があった。箕の需要が減ったために、もはや箕作りを主要な生業とする光景は見られないが、箕を作る人はいる。そんなムラを訪ねたことがある。かつては辺鄙な山村ゆえに、町場からのある種の差別的な扱いもあったが、関東以南で箕作りの人々が蒙ったような卑賤視は、まるで見られなかった。つまり、東北の箕作りのムラは被差別部落ではなかったのである。

 あるいは、山形のある町はかつて、草履表作りを大切な地場産業としていた。近世後期に、名主一族の尽力によって、草履表作りの技術が導入され、明治なかば以降はたくさんの人々がそれを副業として生計を立てたのである。西日本では被差別部落の職業に数えられることが多い、この草履表作りもまた、東北では差別と無縁な職業だった。この町の周辺には、下駄やほうきを特産品として作るムラもあったが、やはり、そこにも差別の影はかけらもなかった。

 さらに、岩手県内には太鼓作りにしたがう人々が、いまも数多く存在する。それもまた、たんなる農閑期の副業のひとつにすぎないようだ。あるムラに、一人の老人を訪ねたことがある。その人は太鼓が好きで、道楽が嵩じて、いつしか、それを生業のひとつとするようになった、という。家業として引き継いだわけではない。当然ながら、ここにも差別の影は見られなかった。

 西とはかなり異なった差別をめぐる状況が、東北にはあったのである。とはいえ、近世には、東北一円の城下町や交通の要衝などに被差別部落が見られた。西と比べれば、その分布はまばらである。そして、その大半はすでに姿を没しているが、いくつかはなお残存し、いまは薄らいだとはいえ、厳しい差別の歴史をくぐり抜けてきたようだ。いまだ、その実態は明らかにされていない。

 

折口信夫の沖縄体験から

 それでは、被差別部落が存在しない地域にあげられる、沖縄の島々はどうだろうか。ここでは、民俗学者の折口信夫が沖縄をはじめて訪ねたときの「沖縄採訪手帖」(一九二一)を、とりあえずの手がかりとする。

 そこには、「琉球には、特殊部落とてはない。唯、念仏者を特殊扱ひするだけで、皮屋も、屠児も嫌はない」と見える。大阪の西成郡木津村の生まれであり、厳しい差別の実態を熟知していた折口の眼には、それがたぶん、たいへん珍しく感じられたのである。じつに簡潔な記述ではあるが、折口は三つの重要な指摘を行なっている。すなわち、沖縄には被差別部落が存在しないこと、「皮屋」も「屠児」も忌避されないこと、ただ念仏者(ニンブチャー・チョンダラー)だけが特殊な扱いを受けること、である。

 このチョンダラーは、葬儀にさいして念仏を唱え、人形あやつりの芸能を生業とすることで知られた、少なからず賤視を蒙ることのあった人々である。いまはすっかり姿を消した。かれらは中世あたりに、ヤマトから沖縄に渡った念仏系の芸能民の子孫だ、と想像されている。チョンダラーには「京太郎」という漢字が当てられるが、そこにも、それが沖縄に根生いの人々ではないことが暗示されているはずだ。

写真
▲炭焼き小屋

 沖縄の島々には、たしかに、ヤマト的な意味合いでの被差別部落が存在しなかった。折口は書いた、琉球では「皮屋も、屠児も嫌はない」と。ブタの屠畜にしたがう人々も、その皮を剥ぐ人々も、ともに差別の対象にはならなかったのである。かつて、沖縄では、正月の儀礼食として欠かせなかったのがブタ肉であることを、想起しておきたい。

 むろん、東北や沖縄の島々が差別のないユートピアだった、などと言いたいわけではない。ただ、少なくとも、東北には被差別部落が少なく、中世以前の東北に、身分や職業にかかわる差別の制度が存在しなかったことは否定できない。沖縄もまた、そうした差別の制度を内発的に生んだ形跡が見られない。その社会的な背景はたぶん、東北や沖縄が生産力の低い遅れた後進地域であったからだ、といった意識せざる「ヤマト中心史観」によっては説明しがたい。それでは、ほかに、いかなる了解の作法がありうるのか。それが次の問いとなる。
 

※ 引用中の「特殊部落」「屠児」は不適切な表現ですが、原文どおり掲載しました。
 
次回に続く


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