21世紀の男たち女たち(その2)ノンフィクション作家 吉永 みち子(よしなが みちこ)

女らしさ、男らしさって何?

写真
▲ワシントン州立重警備女子刑務所における介助犬育成プログラム(PPPP)プリズンペットパートナーシッププログラムに参加する受刑者を取材中
捨てられた犬たちをレスキューする喜び、受刑者たちに訓練士という職能を与えられる喜び、育てられた介助犬によって障害を持った人を社会参加に導く喜び、の三つの喜びがあるという。

 性的役割分担の社会では、女性の役割は、家事、育児、夫の世話。男の役割は、仕事をして家庭経済を支え、社会を作る。世の中の決定権は男性が握り、女は精々内助の功止まり。その振り当てられた役割をよりスムーズに演じられるためにあてがわれたキャラクターが、女らしさと男らしさだったのではないかと思う。定められたキャラクターは、誕生の瞬間から日々の暮らしの中で教え込まれたり、さり気ないひと言で本来の心の動きを封じていく。ピンクの服は女の子、ブルーは男の子。「かわいいわね」は女の子の誉め言葉で、元気そうとか、たくましそうとかは男の子用。うっかり間違って、女の子に「泣かないで大物の風情ですね」なんて誉めると「あの、女の子なんです」と言われて、「あら、ごめんなさい。元気そうだからつい男の子かと思っちゃって」などと汗をかいて訂正したりする。

 物心つくと同時に、このように男らしさ、女らしさの洗礼を受け、言葉を理解できる頃になると、もっとダイレクトにからみついてくる。

 「男の子なんだから、しっかりしなさい」「男のくせに情けない」

 昨今は、男の子の方が男らしさ復旧に向けて以前にも増して強要されているようにみえる。「女だっていうのに、男顔負けの威勢のよさで、困ってますよ」と苦笑いですまされて育った女性の前でオタオタしてしまって、バーチャルな世界の女性に逃げ込んで部屋から出てこない男性を見かける。らしさは、今は男性の方により重くのしかかっているのかもしれない。

 

自分らしさ

 自分を知る、自分の人生を歩もうと思った時に、自分に辿り着くまでに、まとわりついた男らしさ女らしさを、掻き分け掻き分け進まなければならないのはしんどい。女だからこう生きる、男だからこうあるべきと、らしさによって生き方や人としてのあり方まで枠組みが決められてしまうと、その枠組みにぴったりはまれる人は幸せかもしれないが、枠からはみ出てしまうと、あきらめるかもがき苦しむかしかなくなる。

 自分がどう生きたいか、自分がどんな役割を果たすべきかは、男と女の枠の前に、人間としてまっさらな状態で決めたいと思う。そして自分が決めた道は、男だから女だからという理由でふさがれることがあってはいけないと思う。

 これからの時代、男らしさ、女らしさに代わるキーワードは、"自分らしさ"になっていくはずだ。

 自分らしく生きるためには、自分が何をしたいのか、どう生きたいのか、自分に問いかけなければいけない。男女のパターンが決まっていて、その中にもぐりこめば自然にそれらしく流れていくというのとは違う。自分の人生を一から自分で色づけしていくことは、決して楽ではないと思うが、ゴール前でふり返ったときに、これが私の人生だったと一人ひとりが実感できる満足感は得られるはずだ。

 

私は本当に生きたのかしら?

 学生時代に、「主婦のブルース」という歌がはやった。昭和40年代、表向きは男女同権の社会のはずだったが、女性の就職口は極端に少なく、社会の門戸はまだ女性に堅く閉ざされていた頃である。

 戦争中に青春時代を過ごし、初老といわれる時期にさしかかった女性の心情を歌った歌で、親の勧めにしたがって結婚し、大きな幸せもなかったけれどさしたる不幸もなく、平穏に年をとった人生の晩年に、自分に向かって呟くのだ。

 「本当にこれでよかったのかしら」「私は本当に生きたのかしら」

 その歌を聴きながら、固有名詞を持てない一生の寂しさを思ったものだった。

 父親の娘、夫の妻、息子の母、つまりお嬢さん、奥さん、お母さんで事が足りてしまう。子供の頃、「女は三界に家なし」だと母親が言っていたし、父親、夫、息子に恵まれることが女の幸せなのだと聞かされて、猛烈な反発を覚えていても、当時は、実際に重く閉ざされた門の前で呆然と立ち尽くしてあきらめるか、男以上に男の感性で武装して強引に入り込むしかなかったのである。