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| 私自身が当時、考えたり発言した内容は、次のようなものだった。 一般論として、信教の自由、居住の自由は、守られるべき大事な権利だ。人権団体の主張も、一般的な原則論として聞く限りには、間違ったことだとは思わなかった。 一方で、それまでの教団の振る舞いを見てくれば、村人の恐怖や不安も理解できた。彼らが平和に、安全に暮らす権利も、また守られねばならない。だから、住民票拒否は積極的に賛同はできないまでも、村側を非難することは私にはできなかった。 ただ、衛生状態が悪くなれば子どもたちの健康にも影響が出るので、「有料で」糞尿のくみ取りを行うべきだ、という主張はした。さらに、子どもの教育を受ける権利を奪い、一方的に教団の価値観を教え込む教団のやり方こそ人権侵害であり、村としては、むしろ積極的に子どもたちを学校に行かせるように働きかけるべきだ、と述べた。 国土法違反は、自分たちの都合で社会のルールを平気で無視する彼らの体質を象徴的に表わしている事件であって、厳正に対応するのは当然である、と考えた。 捜査の過程の中で、坂本弁護士一家の事件の手がかりがみつかるかもしれない、という期待がなかったわけではない。被疑者・被告人の基本的な人権を守るため、別件逮捕は違法とされている。他方、命劣悪な環境の中で拘束されていることが考えられた坂本一家の命という重い「人権」を考えれば、思い切った対応も必要ではないか、とも思った。国土法違反事件の枠を越えた捜査を求めてはならないという原則的な建前と、一家の救出を願う本音が、私の中で格闘をしていた。 |
| 村当局の対応に対して、同じ「人権」という言葉を使いながら、村人の側に立つか、教団側に寄り添うかでは、全く違った意見になる。警察の捜査に関しても、立場によって、「人権侵害」に見えたり、「当然」あるいは「足りないくらいだ」と映ったりする。 後に、教団は波野村進出の時、すでに組織を挙げた武装化計画を開始し、波野村でも、毒ガス生産プラントの建設を始めていたことが分った。オウムの反社会的・非融和的な態度に、住民側が危険性を感じ取ったことは、間違ってはいなかった。ただ、そういった直感や感情のレベルでの判断をあまりに優先すれば、別のケースでいわれなき差別を解決する妨げにもなりかねず、その兼ね合いをどうしたらいいのか、今も非常に悩むところだ。 それから十年が経過し、教団に対する強制捜査で教祖ら幹部が逮捕された後、住民票拒否は、教団が進出した先々で行政側の武器として使われた。教団の退去を求める運動が加熱し、住民側が教団信者をつかんで振り回すケースもあった。 教団は、行政の対応は人権侵害であるとして、裁判に訴えたり、弁護士会などの人権救済機関に救済措置を求めた。地下鉄・松本サリン事件や坂本事件の全容が明らかになった後であり、住民の不安は当然だろう。オウムこそ、まさに人権侵害のデパートのような組織であったし、今も教団名を隠し人の弱みにつけこむ勧誘など、問題行動は続いている。 |
| だが、かつての波野村のような、せっぱ詰まった事情もない大きな自治体に至るまで住民票を軒並み拒否した行政のやり方は、賢明であったとは、やはり思えない。むしろ、居所を正確に申告させておくことの方が、安全という立場からも望ましいのではないか。 ただこの反対運動は、思わぬ”効果”をもたらした。それまで教団の犯罪について、どんな証拠を示されても、穏やかに説得をしても、事実を認めようともしなかった教団が、激しい反対運動にあって初めて、教団の犯罪への社会の怒りと不安を知り、組織の存続のためには、方針転換をせざるをえなくなったのだ。最低限の事実は認め、被害者への賠償にも応じた。それまで踏みにじられたままであった被害者側の権利は、わずかではあるが、補償されることになった。そのことを考えると、一連の反対運動をどう評価するか、私は今でも結論を出せずにいる。 |
| 強制捜査の後に、もう一つ「人権」にかかわる問題としてクローズアップされたのは、教祖の麻原彰晃こと松本智津夫の子どもたちの就学問題である。 このトラブルは、二カ所で発生した。一つは、麻原と女性幹部との間に生まれた女児たちの就学問題で揺れたT村。もう一カ所は、本妻の長男次男それに四女らが住むR市である。今回は、R市の例を挙げよう。 教祖の麻原彰晃こと松本智津夫が逮捕された後、教団は長男と次男を新教祖にした。教団広報誌は、二人の写真や言葉で埋められ、祭壇にも二人の写真が飾られた。二人が父親の言葉を読み上げる声をテープやビデオに録音録画して、信者に配った。 ところが、教団側が方針転換を迫られる時期に、兄弟の姉たちの諍いが警察沙汰に発展し、それをときっかけに、二人は”退位”。教団と組織的な関わりを持たないことになった。そしてR市で数人のお世話係と共に暮らし始めたが、市側は住民票の受け入れを拒み、就学も認めなかった。住民の反対運動も始まった。子どもの側は、裁判を起こした。 子どもの代理人の弁護士は、きわめて原則的に「権利」を勝ち取ることを目指しており、住民に歩み寄りは一切しなかった。支援に乗り出した人権団体も、住民との融和は重視しないらしく対決姿勢が鮮明だった。 裁判で、子どもたちの主張が通ることは予想できた。私が心配だったのは、その後のことだった。裁判所の判決は人の心まで変えることはできない。法律上の権利は認められたとしても、住民の不安や反感がある程度解消されなければ、子どもたちが学校に通い始めても、友達もできず、かえってつらい立場に追い込まれてしまうのではないかと、気にかかった。 |