『破戒』にみる「人権」ーー藤村と晶子を通してーー
 
関西大学文学部講師 上杉 聰

[ 丑松のモデル ]
 しかし『破戒』当時、きびしい差別がなかったかといえば、当然にもあった。藤村が同小説を書こうと思い立ったこと自体、そのころ長野で部落出身の教師に差別がなされたことを知ったからだった。その教師は、出身が明らかになって同僚から「新平民と一緒に教えるのは我慢できない」と排斥され、仕方なく高等師範学校での勉学へと進んだ。そこを優秀な成績で卒業すると、再び長野に帰って尋常師範学校で教鞭をとるのだが、ふたたび周囲からきびしい差別を受けつづけた。ある時、彼が仕事で泊った宿は「畳の表替えをする、塩をまく、まるで伝染病の消毒宜しくという騒ぎ」になったという。これが「偏見を知的に打破した」とされる社会のもう一つの側面なのだった。
千曲川
小説『破戒』の舞台となった飯山市を千曲川から望む。

 彼は長野を追われ、大阪や鳥取の尋常師範学校の教師を転々とし、最後は三四歳の若さで兵庫県の柏原中学校の校長となった。日常生活では差別に包囲されたものの、欧米の進んだ教育心理学を学んでいた彼は、上からは高く評価され、抜擢もされたのである。しかしその翌年、母の看病のさなかに死亡する。藤村がモデルとしたのは、この実在の人物で、大江磯吉といった。


[ 晶子の場合 ]
 当時、部落差別をなお隠そうとする風潮の中で、差別の存在を自ら率直に表明した歌人がいたことも忘れてはならない。与謝野晶子である。彼女は『明星』に次のように書いた。

 私は「穢多ー新平民」と云ふものを、この通り全篇の骨に用いてあることが、どうにも快い感じが致しません…作者ができるだけ厚い同情をもって引き合わせて下さいます主人公の丑松を、私はどうも正面には眺めかねます。ちょうど私の子供の時に、下男どもが指差して、「今お店の前を穢多の娘が通ります」などと教えてくれます度に、目をそらして奥へ逃げて入りましたと同じ恥ずかしさ、気の毒さでござります。


与謝野晶子 明星
『破戒』への批評を書いた頃の与謝野晶子
 堺にある老舗の菓子屋の娘として育った晶子は、そこからわずか一〜二キロ先にある被差別部落の子どもを見ないように隠れた記憶が、『破戒』によってよみがえったことを素直に書いた。なぜ彼女が目をそらせたのかといえば、葬式の行列に対してもそうしていたことからみて、「見れば穢れる」と教えられていたからと推測される。その強烈な畏れや嫌悪感を彼女は思いだし、今なお差別が自己のうちに眠っていることを公にしたのである。彼女は、他の文士たちのように、Tそんな問題はもうないUなどとは書かなかった。
堺市街(明治中期)
与謝野晶子が成人するまで過ごした堺市街(明治中期)

 人の内面を微細に描した藤村の自然主義リアリズムの力によって部落の青年・丑松と出会わさせられた晶子は、それに反応して内からわきおこる差別心のよみがえりを体験するとともに、これではいけないとの思いを抱いていく。
 その後、部落の人々が差別撤廃の運動を開始したとき、彼女は夫・鉄幹とともに、わずかながらそれに協力していった。『破戒』は「寝た子を起こした」のである。


[『破戒』の力と限界 ]
 差別は心が通じないために生じる面がある。歴史の資料によると、T動物を殺す恐い心をもつ人たちUという内面への偏見が古くから見られる。それにT穢れU感も加わってくる。しかし、その人たちがどのような思いをもって生きているかわかれば、差別などしないし、できないものだ。『破戒』は、部落の人々の内面を描くことによって、その小説を読んだ人たちに部落の心を知らせ、差別の撤廃を呼びかけたーー少なくとも、そうした効果もたらしたのである。
 たしかに『破戒』は多くの問題を抱えている。差別されることへのあきらめや、貧しい部落の人々に対する蔑視も見え隠れして、藤村の限界がうかがえる。ただ、その欠点を補ってなお、差別を内側から克服しようとしたことが、今も高い評価の理由となっている。


(引用文献の旧かなづかいや旧字体は、可能な限り現代表記・新字体に直した。)